八幡とは

 八幡(やはた、やわた)は、八の字に主意を置くか、幡の字に主意を置くか、によって、意味が違うようである。八に主意を置くと「矢」の字を当てて、矢幡とは弓矢にまつわる言葉のもののように説く見解もある。しかし、私は寡聞にして「ヤハタ」「ヤワタ」と言う弓矢に関する言葉は聞いたことがありません。また、ヤは湿地を意味するといい「谷」の字を当てて、谷畑、谷端と言うような使い方をするらしい。「ヤ」はほかに「岩」を意味するという。即ち、岩(イハと発音する)をイハの二音を合体し、ヤと発音するという。岩畑、岩端は今はイワハタ、イワバタというのがほとんどだが、これらをヤハタないしヤバタと読んだのだろうか。ただ、少し気になることは石畑、石幡(イシハタ)、石腸、石綿(イシワタ)の語が多いのに、岩のつく語が少ないのはどういうことなのだろうか。幡(ハタ)にはいろいろな意味があり、秦(氏)、端、傍、畑、側、墾田(はりた)の略等々たくさんの解釈がなされている。このように幡に主意を置くなら、八(ヤ)の意味は1.美称 2.数の多いこと 3.八の字は弥に通じ、日本民族の神聖数などが挙げられる。
 以上より推測するに、八幡の本義は谷畑であり、これは畢竟「水田」もしくは水田類似の土地を意味するものではないか。
宇佐神宮(八幡神を祀る神社)
 宇佐神宮は、元来、八幡神(八幡大神)のみを奉斎していたが、今は誉田別命、比売大神、息長帯比売命の三神を祀っている。
 草創に関わった氏族
  宇佐氏    宇佐国造家。記紀に出てくる兎狭津彦、兎狭津姫を祖とすると言う。比売神を氏神とした。
  大神氏    大和大三輪氏と同系、あるいは九州土着の豪族。官社としての八幡宮を創始した大神比義を祖とする。
  辛島(漆島)氏 渡来系氏族。宇佐地方に先進技術を紹介したと言う。
三氏族がそれぞれ奉じていた氏神や信仰が融合し、八幡神という一つの神格が形づくられた。由来は不明。神性も複雑多岐にわたる。草創期には多くの女性祢宜を排出した。と言うのが、一般的見解のようである。
 しかし、一つの神社に三つの氏族が関わると言うことはこの地方に主導権を握る有力氏族がいなかったことになり、また、八幡神一神に神格化されたように思われる向きもあるが、元々二神と理解されていたようであり(天平勝宝元年(749)八幡大神は一品、比咩神は二品の神位を受けたとある)、宇佐氏の比咩神と大神氏の八幡神が一つの神社に併存していたと言うことになる。
 草創縁起
 各氏族の草創縁起がある。
大神氏
 大神清麿等解状(815年頃のものか)によると、八幡神は八幡大菩薩で太上天皇(応神天皇)の御霊であるとし、欽明天皇の時代に宇佐郡馬城(まき)嶺(御許山)に出現。欽明二十九年大神比義が鷹居瀬(たかいせ)社(鷹居社)を祀り、その後小山田社を経て、現社地の「菱形小倉山」に遷座したという。小倉山は小椋山とも書く。
辛島氏
 宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起(844年)によると、八幡神は品太(応神)天皇の御霊で、欽明天皇の時代宇佐郡辛国宇豆高島(からくにうずたかしま)(宇佐市の稲積山、または、小倉(小椋)山)に天降り、大和国、紀伊国などを遍歴して馬城嶺に出現。その後、宇佐郡比志方荒城潮辺(乙咩社)、酒井泉(さかいいずみ)社、瀬社へと現れ、次いで鷹居社に移座したという。この時、八幡神は鷹となって心荒く、往来者が五人行けば三人、十人行けば五人を殺すという荒ぶる神であったため、辛島勝乙目が崇峻天皇三年から三年間その心を和らげ祀り、天智天皇の時代に小山田社に、神亀二年(725)には辛島勝波豆米の託宣により現社地へ遷座したという。私見では、辛島氏の歴史は宇佐神宮創建前には遡れないようであるが、(但し、素戔嗚尊の子孫を自称しているもののようである)おそらくその先祖は応神天皇が朝鮮半島遠征の際に連れ帰った人物ではないかと思う。遠征の際は宇佐の人々に多大な迷惑をかけたのでそのお礼ではないか。辛島氏は秦氏などとは違って少人数の団体で、伝えた技術も先端技術と言われているが農業(水田開発)に関わる限られたものであったと思う。
その他の縁起(宇佐氏が残した縁起はないようである)
 欽明天皇の御代に宇佐郡「厩嶺菱潟之池」の間に鍛冶翁がおり、はなはだ奇異であった。大神比義が三年間祈ると三歳の童子(八幡神の化身)が竹葉上に現れ、託宣して、我は誉田天皇広幡八幡麻呂なりといい、名を護国霊験威力神通大自在王菩薩と名乗ったというもの。
 最後の縁起を除くと大神氏と辛島氏の縁起には共通したものが多い。両氏が同じことをしたとは思われないので一方が他方の文書を参照したと思われるが、辛島氏の方が内容豊富である。まず、大神氏が起草し、後ほど辛島氏が敷衍したと言うべきか。
 八幡神が応神天皇という信仰は大神氏によりもたらされたもののようであるが、以下、その考察を行ってみる。
 八幡神に入る前にもう一柱の祭神「比咩神」とはなんぞやと言うことである。一般的には記紀にも出てくる宇佐国造家の祖神と解されている。さすれば、祭神は兎狭津彦、兎狭津媛となるはずで、しかも一般的には比咩神は女神と解されている。宇佐国造家は記紀によれば、神武天皇東征以来の旧家でその歴史は悠久である。おそらく、宇佐国造家の初期の頃は兎狭津彦、兎狭津媛と二神が祀られていたのであろうが、その後兎狭の文字が取れて彦姫神となり、その後それも簡略化されて彦のヒと姫のメとを併せてヒメ神となったのではないか。従って、ヒメ神(比咩神)とは女神ではなく、本来、男女一対の神をあらわしたものと考える。また、八幡神に関する宇佐国造家の縁起がないのも宇佐神宮において宇佐国造家は八幡神とは関わりがなく、神社草創時には大神、辛島両氏とは関係なく、兎狭津彦、兎狭津媛の二神を祀っていたものと思われる。要するに、宇佐国造家と大神、辛島両氏は異質の神主だったのだろう。宇佐国造家は祖神を祀ると言う神道の古い形を伝えているのに対し、八幡神は今流の商業主義的な側面が垣間見られる。宇佐神宮は、元来、兎狭津彦、兎狭津媛の宇佐神を祀る神社という説もある。但し、宇佐神宮は、比咩神は宇佐の地主神(地主神といいながら宗像三女神に比定している)で、宇佐国造家は地主神を祀り、祖神を祀ったのではない、と言うもののようである。即ち、氏神信仰ではない、と。
 しからば、八幡神は宇佐とは全く関係のない新来神、外来神なのだろうか。今は八幡神の本性(正体)は応神天皇の御霊と言うことになっているが、果たして、応神天皇は宇佐の地にやって来た形跡はあるのだろうか。思うに、高句麗の好太王の時代と応神天皇の時代が重なり合うといい、彼の地の碑文では倭(日本)と高句麗が10年余りにわたって戦ったことが記されている。391年の倭軍の渡海(百済、新羅を破る)、399年の倭人が新羅に侵入し、新羅王を臣下とした、400年の高句麗軍5万による新羅救援、404年の倭軍を帯方郡より撃退、が主なものであるが、5万の大軍を動かす好太王と互角に戦っているところを見ると、百済や任那の兵員や物資では足りず、日本から間断なく補給していたのではないか。将軍四名の派遣だけではとてもとても好太王には勝てないと思う。当然、補給基地(現在の福岡市か)にはそれなりの人材が必要で、それが応神天皇(この場合は大鞆別)ではなかったか。また、韓半島には四名の将軍だけでなく誉田別(記紀には応神天皇と記されている)も渡り、彼の地に常駐して戦いに挑んだのではないか。応神紀三年是歳条では紀角宿禰等が百済の阿花王を立てて帰国したように書かれているが、391年即ち辛卯年に百済新羅を臣民とし、翌年(392)傀儡政権を樹立したと言うことか。戦ったのは誉田別で、事後処理をしたのが四将軍と言うことなのだろうか。とにかく、占領地を維持するためには倭軍が帰国しては何にもならないと思う。その後、倭軍は長期にわたって、韓半島に駐留したはずである。そこで、補給であるが、戦地の旺盛な兵員、物資の需要を満たすため倭国ではかなり無理をしていたのではないかと思われる。何も九州一帯だけでなく全国的な苛斂誅求が行われたことと思う。(参考になるのは、仁徳四年三月の三年間にわたる免税の話)当然、補給の中心地は筑紫になり、中央からやって来た責任者(大鞆別と思う)が過酷な搾取を行ったことと思う。また、前述の辛島氏の宇佐神宮縁起では「八幡神は鷹となって心荒く、往来者が五人行けば三人、十人行けば五人を殺すという荒ぶる神」となっている。この八幡神は大鞆別のことであり、時折やってきては兵員の徴兵を行った様を述べているものであろう。鷹というのも大鞆別が自称を「わし(儂)」と言い、鷲が鷹に変わったのではないか。(但し、儂の語は中世からとの説もある)また、八幡を谷畑と解し、水田と見るなら宇佐ではその頃より稲作が行われていて、米もむしり取って行ったのではないか。しかし、米は生育するまで半年ほどかかるのでその間は人々を脅し賺しして農作業に従事させていたのではないか。この「賺し」の部分が大鞆別を人々に神と崇めさせる所以になったものであろう。八幡神信仰は宇佐地方の土俗信仰ないし民間信仰だったが、(被支配者の信仰だったので記紀には載らなかったのだろう)それを拾い上げ官社にまで引き挙げたのは大神氏だったと思う。即ち、大神比義は宇佐の人々が「オホトモワケ」もしくは「オホモト(大元)ワケ」という神を祀っているのに目を付け、それは応神天皇だ、と喝破し、欽明32年(571年か)の託宣になったのではないか。勿論、託宣の内容自体は潤色したものであろうが、オホトモワケあるいはオホモトワケを応神天皇と洞察したのは彼のすぐれたところであろう。しかし、子孫は商才に長けていたようで、その後の宇佐八幡の成り行きを見てみると、
和銅5年(712)鷹居瀬社に祀られ、小山田社に移り、神亀2年(725)現在の小椋山に社殿が作られた。
天平9年(737)新羅の無礼を奉告。
天平12年(740)大野東人が藤原広嗣の乱の鎮定を祈願。
天平17年(745)頃東大寺大仏鋳造に際しては八幡神の神託により黄金を得た。
天平勝宝元年(749)八幡大神は一品、比咩神は二品の神位を受ける。
神護景雲3年(769)和気清麻呂が参宮して神託を受ける。(いわゆる、道鏡事件)
そのほか、宇佐神宮ホームページ歴史年表では諸々の勲功を記している。
 ちなみに、八幡神の本性は元々応神天皇(大鞆別)であって、そのいわゆる原像なんて言われるものはない。しかし、八幡神が応神天皇の御霊とされる前は、いろいろな神に比定されている。例として、海神系では、海神、航海神など。鉱工業系では、鉱業神、鍛冶の神、銅の文化の守護神など。軍神では、弓矢の神、九州討伐軍の守護神。ほかに、朝鮮の神、農耕神、彦火火出見命、母子神などがある。八幡は、大神比義が託宣で「誉田天皇広幡八幡麻呂」と言われたのが初出か。しかし、広幡も八幡も元々は地名と思われ(但し、欽明天皇の時代まで遡るかは不明であるが、奈良時代には広幡は人名で秦人広幡(某)と名乗る一団があり「広幡を織る職人」のこととする見解がある)、さような地名が古代の宇佐郡にあったかは不明。そもそも、託宣自体が作文と思われるが、誉田天皇は人々の信仰の対象が「オホトモワケ」だったのでそうなってのであろうが、広幡八幡は広幡が広域を八幡が広幡の一部の地域をさしたものか。但し、広幡八幡の作文を書いたのは宇佐の地元の人ではなく(大神比義を含め)、あるいは、この人名(地名)は宇佐とは関係のないものかも知れない。広幡や八幡の遺称地が宇佐にないのも気がかりなところだ。豊前国築城郡綾幡郷が八幡の地という説(アヤハタのアが取れてヤハタとなったと主張するもののようである)もあるが、綾幡と八幡は幡の字は共通であるが意味は似て非なるものではないか。また、「越路村の内に広幡と言うところあり」「広幡八幡社が越路村(椎田町越路)の南、水原村(椎田町水原)との境にあり」とかあるが、後世、広幡八幡社から名付けられたものであろう。蛇足ながら、広幡八幡と重なっているので現在の地図で「××畑」の地名がまとまってあるところを見てみると、集落単位の地名であり、あるいは古く焼き畑方式で開拓した土地に土地の形や土質によって名付けられたものか。
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