住吉神社の始原とは

住吉神社(福岡市)はかくのごとく曰っている。
 
この社はもと筑前国一の宮で、全国二千社をこえる住吉神社の宗社である。(境内案内板)
 
住吉大神をお祀りする神社が全国に二千百二十九社ありますが、当社は住吉の最初の神社
で、古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されております。
(神社パンフレット)
 
当地が筑紫日向の橘小戸の檍原の古蹟(筑前国住吉大明神御縁起)
 
 古事記にある、黄泉から逃げ帰り伊邪那岐命が禊祓を行った「筑紫の日向の橘の小戸の
阿波伎原」は住吉神社の地であるとして、上記の見解になっているものと思われる。少し
理屈を述べれば上記阿波岐原が住吉神社の地であるとしても、そこに住吉神社が創建され
たか否かはまた別の話であって、一説に那珂川町の現人神社がここに移転されたと言い、
現人神社が住吉大社や福岡の住吉神社の元宮だ、と言う見解もある。
 
 古事記で該当箇所を見てみると、まず綿津見神が出現し次に筒之男神が出現している。
その後、三柱の綿津見神は阿曇連等が祖神と以ち拝く神なり、三柱の(筒之男)神は墨江の
三前の神なり、とある。これでは三柱の綿津見神は九州で祀る人がいたが、三柱の筒之男
神は九州では祀る人がおらず、大阪で祀られたと解せられる。日本書紀も大同小異で禊祓
の方法が古事記では川の水をすすいだ雰囲気なのに日本書紀では海に潜っているようであ
る。ここで問題になるのは一緒に化生した神がどうして福岡と大阪に分かれて祭られたの
か、と言うことである。
 第一に考えられることは、綿津見神の神話と筒之男神の神話は何ら脈絡が無く、後年、
内容が似ていたので記紀の原型を作成した関係者が二つの神話を伊弉諾尊の神々の化生の
神話に一元化した。此の見解では綿津見神は九州北部の神であり、筒之男神は大阪湾岸の
神となる。特に、綿津見神の信奉者である阿曇連は記紀ともに阿曇連等と書いており、等
の文字から推察すると九州北部の複数の氏族が信奉していたものか。敷衍すれば、魏志倭
人伝の奴国で信奉されていた神だったのではないか。これに対し、筒之男神の方は住吉
(墨江)の地名のみである。以上より導き出される結論は、住吉神社の始原は大阪の住吉
大社であり、和名抄では筑紫国に住吉の地名は無いようである。但し、筑紫国続風土記
には那珂郡に住吉村がある。比較的新しい地名なのか。
 次に、阿波岐原の比定地であるが、福岡県古賀市青柳との説もあり、元青木村(現福岡
西区今宿青木ほか)説、遠く宮崎市説もある。筑紫(福岡県)、日向(日向峠)、橘(立花峠)、
小門(福岡県西区小戸)と比定するなら阿波岐原もその近くにあってもいいのではないか。
即ち、これらの比定地が魏志倭人伝に言う伊都国の中にあり、阿波岐原も奴国と思われる
現住吉神社の地ではなく、小戸の地の近くにあったのではないか。ちなみに、小戸神社の
境内由緒書では「小戸大神宮は神代の昔伊邪那岐命が御禊祓の神事を行われた尊い地
であり、皇祖天照皇大神を始め住吉三神他神々が御降誕され、神功皇后の御出師及凱旋
上陸された実に由緒深い神社であります」とある由。
 以上より推察するに、住吉三神は魏志倭人伝に言う伊都国が斎祀る神であり、その後の
衰退(魏志倭人伝では伊都国とあり王もいたのに、古事記神功皇后の段では筑紫国の伊斗村
とある。凋落が著しかったと思われる。但し、日本書紀には伊都の県とあり、県主もいる)
により、住吉神社始原の地が発展著しい奴国(日本的に言うと那の県か)に移されたと解釈
される。それに、当時の奴国は中心地が金印の発見された志賀島であり、奴国王も阿曇氏
の先祖だったのではないか。但し、遺跡は春日市の方に多いので、奴国も中心地が海辺よ
り内陸部へ移ったようである。よって、小戸神社も今は住吉三神を祀ってはいない。伊都
国(邪馬台国-大和-の出先機関)は住吉三神を、奴国(元々独立国か)は綿津見三神を、不弥
国(出雲の出先機関)は宗像三神を祀っていたものか。そのうち大和の関係国の伊都国の神
が摂津に移されたと言うべきか。
 
 最後に私見を述べれば、摂津住吉の地は縄文弥生の時代より大伴氏、津守氏が在住し、
その後時と共に大伴氏は土地の大豪族となり、津守氏は小豪族となった。いずれも漁業を
生業とし、大伴氏は住吉三神を、津守氏は綿津見神(豊玉彦命、豊玉姫命)を祀っていた。
然るに、摂津の他所の小豪族だった但馬出身の忍代別(景行天皇)は大伴氏と姻戚関係を結
び、その後めきめきと頭角を現し、疫病で苦しむ三輪王朝を尻目に大和の地には入らず、
全国遠征を行い制覇をしたのである。その遠征に従ったのは姻族の大伴氏で、その後忍代
別や大鞆別、誉田別が大王となるとそれに従い一族もろとも大和の地へ移住したのでは。
 そうしたら、大伴氏が今まで斎祀ってきた住吉三神はどうなるのか。私は神功皇后の三
韓討伐後、帰国した際「我が和魂をば大津の渟中倉の長狭にまさしむべし」(住吉三神の
言)は疑問で、事実は大鞆別が田裳見宿禰に現代的に言うと「大伴は今後国政に参画する
ことになった。従って、大伴は都のある大和に引っ越す。大伴が斎祀っていた住吉三神は
今後隣組の津守が斎祀れ」と言ったのではないか。無論、津守氏は綿津見神を祀っており、
何で我が氏が他氏の神を祀らなければならおはないのか、と言う思いはあっただろうが、
そこは最高権力者と小豪族の差は大きく、従わざるを得なかったのだろう。また、なぜ
津守氏が住吉三神を主に綿津見神を従にしたかは、やはり今流に言うと大豪族の信徒数
と小豪族の信徒数には大きな開きがあったのであろう。
 
 「和魂は王身に服ひて寿命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ」と言っているが
実際に警護をしたり船を操ったりするのは人間である。神功遠征で出てくるのは畿内の人
や穴門、岡、伊都など那の周辺の県主などであって、那の県主は出てこない。那の県には
橿日宮が設置されただけ。要するに、三韓討伐には那の県主は何の働きもなく、当然、そ
の斎祭る神も何の役目も果たさなかったのでは。日本書紀で見る限り神功皇后が住吉神社
を建てたのは、「我が荒魂をば穴門の山田邑に祀らしめよ」と誨えのあった下関の住吉神
社と「我が和魂をば大津の渟中倉の長狭にまさしむべし」と神教のあった住吉大社だけで
はなかったか。そもそも、伊弉諾尊の綿津見三神と住吉三神の同時化生の話も元々別の話
で津守氏が十分に説明ができなかったので(本来、大伴氏の伝承)似たような話が九州に文
字となって残っていたので二つを合体して記紀に記載したものであろう。また、「住吉大
社神代記」も問題だ。神功皇后と住吉大神との間に密事があったようなことを記している。
当時も応神天皇の出生に関してはもやもやしたものがあったようで、それをはっきりさせ
ようとこんなことを書いたのかも知れない。この場合は、おそらく、住吉大神は景行天皇
であり、神功皇后は大伴氏の息女、応神天皇は大鞆別ということになろうかと思う。分か
らないことは余計なことを書かない方がよいのである。神代記を書いた津守嶋麻呂と津守
客人は返って自分たちの斎祭る神の品位をおとしめている。加うるに、京都竜安寺にある
「住吉大伴神社」(創建834年)についても、通説は伴氏神社と伴氏が没落後藤原氏が建て
た住吉社を習合したもの(山城誌)と解しているが、元々伴氏が自分たちに縁の深い住吉三
神と大伴氏祖神二神(天押日命と道臣命)を祀っていたと言う説もある。
 以上より判断すると、福岡市やその界隈に鎮座する住吉神社の始原説は自己の主張のみ
で客観的な証明がない。その点、下関の住吉神社と大阪の住吉大社は日本書紀がお墨付き
を与えている。特に、三韓討伐軍が畿内から出かけたと言うことは当初の討伐軍の主力は
摂津(大鞆別の姻族)や河内(誉田別の姻族)の人々だったと考えるなら、住吉神社の始原の
地は摂津と考えてもおかしくはない。なお、神功皇后軍が日本海航路を取ったのは、海流
の関係とか吉備国が大和国を妨害しているとか諸説あるも、当時の丸木船に毛が生えたよ
うな準構造船で船団を組んで出かけた場合、瀬戸内海の島々は障害物以外の何者でもなか
っただろう。瀬戸内海沿岸の住吉神社の鎮座は遣隋使以降のものか。やはり、一般的に言
われているように地名と神社がセットで出てくる(古事記)摂津国の住吉社と神社名が先行
した筑前国の住吉社(延喜式神名帳にはある)では、遣唐使船の神主である津守氏が航海の
全を願って停泊地に祀ったものではないか。
 
 蛇足であるが、住吉神に関してはその三神の上筒之男、中筒之男、底筒之男の「筒」の
意味が問題になっているが、おおむね「つつ」は古語で星を意味するとし、オリオン座の
三つ星のこととする説と「つつ」は「津津」の語であるとする説がある。星座が見られる
のは主に夜であり、古代の人が危険な夜の航行を行ったかははなはだ疑問だ。津も上中底
という垂直関係を説明するのに難がある。そこで、私は「筒」を漁具と解したい。現代で
も筒と称するいろいろな漁具があるようで、上筒之男は海の表面を泳ぐ魚を捕るのを得意
とし、中筒之男は海の中程を泳ぐ魚を捕る筒の操作を得意とし、底筒之男は海底の魚介類
を捕ることを得意としたのではないか。伊邪那美、伊邪那岐夫婦は伊都国の潜水漁法を行
う漁師だったと思う。日本書紀で伊邪那岐が御祓祓えを行うのに海に潜ったというのは漁
師以外には考えが及ばない。
 筒漁は網漁が開発される前の標準的な漁法だったのではと思う。
 
追記
 荒魂を穴門に、和魂を摂津に祀ったとあるが、荒魂の荒は新(あらた)にも通じ、荒魂と
は分祀をした神社では。和魂は賑わい(にぎわい)という言葉にも通じ元の賑々しい神社を
言うのではないか。即ち、下関の住吉神社は分社、摂津の住吉大社は本社と言うことにな
るのではないか。但し、神道の説くところは全く違う。
 
本住吉神社
 もう一箇所住吉神社の始原説を主張している神社として神戸の本住吉神社がある。此方
はほかの住吉神社と違い、自己の主張だけでなく、高名な国学者である本居宣長が後押し
をしている。勿論、福岡の住吉神社も「当社の歴史は、およそ1,800年以上前に遡ります。
全国に2,129社ある住吉神社の中でも、最初の神社と云われており、古書にも当社のこと
を「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されています。」と言っているが自称の域を
出ず、本居宣長ほどのインパクトはない。
 そこで日本書紀の神功皇后の段を見てみると、住吉三神を祀る場所として「大津渟中倉
之長峡」とし、ほかに神誨により広田、生田、長田の地にそれぞれの神を祭ったという。
これらの地名で思い起こされるのは景行天皇である。私見で恐縮ではあるが、景行天皇は
魏志倭人伝の邪馬台国と狗奴国の戦いの際、但馬ないし因幡から邪馬台国の援軍としてや
って来て、戦後、広田、生田、長田と大津渟中倉之長峡の交差する地点、今で言えば尼崎
市、或いは大阪市北部に土着した小豪族ではなかったか。そこで地名を比定してみると、
大津は今も泉大津とか大阪の地名が残るように現在の住吉大社のあるところではないか。
当時は、或いは「大伴の御津の浜」と言ったところか。景行天皇の皇子の大鞆別の出身地
と思う。渟中倉は河内国の内にあると思うが今の羽曳野市誉田の地か。景行天皇の皇子の
誉田別の出身地と思う。或いは、河内長野か。長峡は今の奈良県葛城市長尾か。景行天皇
は長峡まで行ったが大和は疫病で死屍累々の地となり、あきらめて引き返してきたのでは
ないか。踵を返して行った先は吉備で広田、生田、長田まで陣を進めたがそれから先は戦
闘モードに入ったのでは。当時は勝者が敗者の娘を妃にする風習があったようで、景行天
皇の最初の皇后も播磨稲日大郎姫で、景行天皇が播磨まで進出していた吉備氏を破った可
能性が大だ。
 以上より日本書紀の神功皇后の段、「大津渟中倉之長峡」や「広田、生田、長田」の地
は神功皇后とは何の関係もなく景行天皇の話が紛れ込んだものであろう。そもそも、神功
皇后の実在性は疑わしい。記紀の神功皇后の話も他の人の話(主に誉田別の話か) を寄せ
めたものではないか。従って、「大津渟中倉之長峡」を特定し、そこが住吉大社の鎮座
地と言うのは意味がないと思う。但し、日本書紀では現在の大阪側の港を大津と言い、兵
庫県側の港を「武庫(務古)水門」と区別している雰囲気もある。
 それにしても、日本書紀の神功紀は住吉神道布教版とも言うべき内容だ。住吉大社の記
録を参照したまでと言えばそれまでだが、当時も宗教活動なんてあったのか知らん。
 
 
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