推古天皇

推古天皇
即位前紀
崇峻五年十二月 即位
推古元年四月 聖徳太子を皇太子とする。太子に全権委任。
推古二年二月 天皇、皇太子及び大臣に詔して、三宝を興し隆えしむ。
         諸臣連等、寺を造る。
推古三年七月 筑紫に駐屯していた将軍等が帰還。
推古五年四月 百済王、王子阿佐を遣わして朝貢する。
推古五年十一月 吉士磐金を新羅に遣わす。
推古六年四月 磐金、新羅より至りて、鵲(かささぎ)二隻を献上。
推古六年八月 新羅、孔雀一隻を貢れり。
推古七年四月 地動りて舎屋悉に破(こわ)たれぬ。則ち、地方に令して地震の
         神を祭らしむ。
推古七年九月 百済、駱駝一匹、驢馬一匹、羊二頭、白雉一隻を貢れり。
推古八年二月 新羅と任那相攻む。天皇、任那を救わんと欲す。
推古八年是歳 境部臣を大将軍とし、穂積臣を副将軍として、万余の衆(兵)を持
         て、任那のために新羅を撃つ。船で新羅に直行し、五つの城を
         攻略する。新羅王、降伏し、六城を割譲。(日本軍が獲得した五城
         も含めるか)将軍等が詮議して「新羅、罪を知りて服う。強いて撃
         たんは可(よ)くもあらじ」と奏上する。難波吉師神を新羅に、難波
         吉士木蓮子を任那に派遣。両国、誓紙をだすも日本軍が新羅より
         退却すると、新羅は亦任那を侵した。
推古九年二月 皇太子(聖徳太子)、宮室を斑鳩に興る。
推古九年三月 大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手を百済に派遣し「急に任那を
         救え」と詔す。
推古九年五月 天皇、耳梨の行宮に滞在。大雨が降り川の水が宮庭にあふれた。
推古九年九月 新羅の間諜・迦摩多、対馬で捕まる。上野に流す。
推古九年十一月 新羅攻撃を決定。
推古十年二月 来目皇子を持って新羅を撃つ将軍とする。軍衆二万五千人を授く。
推古十年四月 来目皇子、筑紫に到る。大型船で兵糧を運ぶ。
推古十年六月 大伴連囓、坂本臣糠手、ともに百済から帰国。
      この時、来目皇子、病に臥して征討を果たさず。
推古十年十月 百済の僧、観勒が来訪。
         暦の本、天文地理の籍、遁甲方術の書を持参。暦法を陽胡史の
         祖玉陳(たまふる)が学び、天文遁甲を大友村主高聡が学び、
         方術を山背臣日立(ひたて)が学ぶ。
         遁甲 九星の運行循環により運気を占う、と。今のホロスコープか。
         方術 占候医卜と言う。総合占いのことか。占は陰陽による占い、
         候は天気予報、医は治療行為、卜は亀卜による卜占か。
         学んだ人たちは業を習得しその道の大家になったという。
推古十一年二月 来目皇子、筑紫にて薨ぬ。
推古十一年四月 来目皇子の兄、当摩皇子を以て新羅征討軍の将軍とする。
推古十一年七月 当摩皇子の妻・舎人姫王、赤石に薨せぬ。当摩皇子、帰還。
推古十一年十月 小墾田宮へ遷都。
推古十一年十一月 皇太子(聖徳太子)、所有する仏像を秦造河勝に与え、河勝、
            蜂岡寺(今の広隆寺)を造る。
推古十一年十二月 冠位十二階を制定。
推古十二年正月 初めて冠位を諸臣にたまう。
推古十二年四月 憲法十七条を制定。
       一曰 和ぐを以て貴しとし、忤うることなきを宗とせよ。
       二曰 篤く三宝を敬え。三宝とは仏、法、僧なり。
       三曰 詔を承りては、必ず謹め。
       四曰 群卿百寮、礼を以て本とせよ。
       五曰 味わい(飲食)の貪りを絶ち、財(たからのほしみ)の欲を棄てて、
           明に訴訟を弁(さだ)めよ。
       六曰 悪を懲し、善を勧むるは、古のよき典なり。
       七曰 人、各々、任あり。掌ること濫れざるべし。
       八曰 群卿百寮、早く朝りて、曇く退でよ。
       九曰 信は是義の本なり。事毎に信あるべし。
       十曰 忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもえりのいかり)を棄てて、
           人の違うことを怒らざれ。
       十一曰 功過を明に察て、賞し罰うること必ず当てよ。
       十二曰 国司、国造、百姓に斂(おさめと)らざれ。
       十三曰 諸官に任せる者、同じく職掌を知れ。
          与り聞かずと言うを以て、公の務をな防げそ。
       十四曰 群卿百寮、嫉(うらや)み、妬(ねた)むこと有ること無かれ。
       十五曰 私を背きて、公に向くは、是臣が道なり。憾(うらみ)起きる
             ときは制に違い法を害る。
       十六曰 民を使うに時を以てするは、古のよき典なり。
       十七曰 夫れ事独り断むべからず。必ず衆と論(あげつら)うべし。
推古十二年九月 黄書画師、山背画師を定。
推古十三年四月 天皇、皇太子以下諸王、諸臣、鞍作鳥に銅と繍の丈六の仏像
           を各々一躯を造るを命ず。高麗国の大興王、それを聞き、黄金
           三百両を貢上。
推古十四年四月 丈六の仏像、完成。丈六の銅像を元興寺の金堂に坐せしむ。
     是歳 この頃、皇太子は経典解説の講師をしているもののよう。
推古十五年二月 壬生部を定む。壬生部とは皇子女のための部。
推古十五年七月 小野臣妹子、隋(紀では大唐という)に派遣。鞍作福利を通事
           とす。
     是歳 倭国、山背国、河内国に池、堀等を造る。
推古十六年四月 小野臣妹子、帰国。隋(紀では唐国という)では、妹子を蘇因高
           という。
           隋の使者裵世清ほか十二人が筑紫に来訪。接遇役、難波吉士
           雄成を遣わす。
           難波の高麗館のほとりに新館を造る。
推古十六年六月 裵世清等難波津に到着。新館に泊める。接遇役、中臣宮地連
           烏摩呂ほか。
           妹子臣、隋(紀では唐)の帝から書を授けられたが、途中、百済
           にて掠み取られた、と。群臣、議りて曰く、職務怠慢、と。流刑
           としたが、天皇が大国の客の手前、赦す、と。
推古十六年八月 裵世清等京に入る。大唐の国の信物を庭中に置く。裵世清、
           親書を提出。
推古十六年九月 裵世清等を難波で接遇、裵世清、帰国。小野妹子大使、
           吉士雄成小使、福利通事等を唐の客に副えて遣わす。
           学僧等八人が随行する。
     是歳 新羅人、多く来訪。
推古十七年四月 筑紫太宰「百済僧道欣、恵弥、首として僧十人、俗人七十五人
           肥後国葦北津に泊まれり」難波吉士徳摩呂、船史竜を遣わし
           問わしむ。
           「百済王の命により呉国に行こうとしたが、其の国に乱ありて、
           入れず。帰国しようとしたが暴風に逢い、日本に漂着した」と。
推古十七年五月 徳摩呂らが同行して、百済に帰ろうとしたが、途中、対馬にて
           十一人の僧が日本に留まりたいと願い出て元興寺に住まわ
           せた。
推古十七年九月 小野妹子等帰国。但し、通事福利のみ帰国せず。
推古十八年三月 高麗王、僧曇徴、法定を貢上。
           曇徴は五経に通じ、絵具、紙、墨を作り、水臼を造る。
推古十八年七月 新羅使人と任那使人が筑紫に到る、また、十月に京に到る。
           (この頃、接遇の形式が複雑になる。二人は何のために来た
           のか全く不明)
推古二十年正月 新年祝賀の議が盛大に行われる。
推古二十年二月 皇太夫人堅塩媛の改葬。
     是歳 百済から来訪者あり。その面身まだらなり。異形をにくみて海中の
         島に棄てようとしたが、彼が「いささかなる才あり。能く山岳の形を
         構く」と。依って須彌山の形及び呉橋を御所の庭に構けと命ず。
         彼を路子工と言った。また、百済人味摩子来訪、呉に学びて伎楽
         (くれがく)の舞を得たり」といい、少年たちを集めて伎楽の舞を習
         わせた。
推古二十二年六月 犬上君御田鍬・谷田部造を大唐(隋)に遣わす。
推古二十二年八月 蘇我馬子、病に臥す。大臣のため男女併せて千人が出家。
推古二十三年九月 犬上君御田鍬・谷田部造、帰国。百済の使い人、同道。
推古二十四年三月 この頃より掖玖(今の屋久島)人、来訪多し。
推古二十六年八月 高麗の使者、方物を貢る。使者曰く「隋の煬帝が三十万の兵
             を興して高麗を攻めた。しかし、煬帝は我が軍に破られて
             しまった。依って、捕虜二人と諸々の貢ぎ物を献ずる」と。
      是歳 河辺臣、安芸国にて舶を造る。
          河辺臣が大木を伐ろうとしたら、地元の人が「雷神の木だから
          伐るべからず」と。(今で言う大木が避雷針の役目や、森林涵養
          による洪水緩和を言ったものか)
推古二十八年是歳 皇太子と馬子がともに議りて、天皇記及び国記等を録す。
推古二十九年二月 皇太子(聖徳太子)、斑鳩宮に薨りましぬ。
      是歳 新羅、初めて使者に書(ふみ)を表(たてまつ)る。(新羅には外交
          文書という概念が無かったのか)
推古三十一年七月 新羅・任那から大使等が来朝。同時に大唐の学者・医者が
             同道。曰く「唐国に留学した人たちは、皆、学びて業を
             成した。喚すべし。また、大唐国は法式備わり定まれる
             国なり。常に達うべし」と。
      是歳 新羅、任那を伐つ。天皇、将に新羅を討たんとす。
          先ずは、外交交渉で、と吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に
          派遣したが、二人が帰国しないうちに、境部臣雄摩侶以下数万の
          大軍を派遣し、新羅を征討す。しかし、新羅王は大軍を恐れ服属
          を申し入れ、将軍たちが協議して、天皇に奏上。天皇、聴るす。
推古三十一年十一月 磐金・倉下等、帰国。大臣に状況を報告。大臣は「悔しき
              かな、早く師(いくさ)を遣わしつること」と。うわさでは
              「この軍事は、境部臣・阿曇連、先立ちて、多(さわ)に、
              新羅の幣物(まいない)を得しがゆえ」と。
推古三十二年十月 蘇我馬子大臣、葛城県の割譲を求めたが、天皇、聴(ゆる)
             したまわず。
推古三十四年五月 蘇我馬子大臣、薨せぬ。
      是歳 三月より七月に至るまで霖雨(ながめ)降る。天の下、大きに飢う。
推古三十六年二月 天皇、臥病したまう。
      三月二日 日蝕があった。
      三月六日 天皇、痛みたまうこと甚だしくして、諱むべからず。
      三月七日 天皇、崩御。
      四月 十日、十一日、桃子のような大粒の雹が降った。
      九月 天皇、群臣に遺詔して「此の年、五穀登らず。百姓大きに飢う。
          それ朕が為に陵を興てて厚く葬ること勿。便に竹田皇子の陵に
          葬るべし」と。
 推古天皇は神功皇后のモデルの一人と言われる人物で、生まれは格別、事績は非常に似ている。二人とも長寿。一説には神功、壱百才、推古七十五歳。二人とも夫に先立たれ摂政(神功)や天皇(推古)になっている。二人とも韓半島を進攻するのに積極的。二人とも大ベテランの老政治家が着いていた。則ち、神功には武内宿禰、推古には蘇我馬子。しかし、政策の決断は自分自身で行っている。
 推古天皇は長期政権のためか地震、洪水、長雨、日蝕、大粒の雹などの天変地異の話が多い。豊作と凶作が一定のサイクルで繰り返されていたことが推測される。最後には自分の陵墓の築造を禁じている。外には美々しく、内には質素に、がモットーだったのだろうか。韓半島はもとより遣隋使や遣唐使をおくっているので、その見返りにやって来る人も多かったようだ。そのたびに、迎賓館を建てて接遇するのは大変だったのでは。
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