欽明天皇、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇

 欽明朝も蘇我、物部と大伴の豪族間のごたごたや任那出兵による戦費調達などによる人民の疲弊などから不満が爆発し、蘇我を筆頭とする新しい勢力が王権を宣化から簒奪したものであろう。しからば、欽明天皇とはどういう系譜の人物なのであろうか。記紀では継体天皇と正妻である手白香皇后との間に生まれた嫡子となっている。これも、単に皇統を万世一系とするための作文で信じがたい。天皇は即位時に「余、幼年く識浅くして、未だ政事に閑わず。山田皇后、明らかに百揆に閑びたまえり」と。この幼年とは今の何歳くらいなのであろうか。思うに、今の小学生か中学生ではなかったか。勿論、そんな年齢では政治などできるはずもなく、即ち、欽明は蘇我稲目に擁立された幼年天皇ではなかったか。換言すれば、稲目の傀儡天皇だったのではないか。血縁的にも稲目の息子かとも思われる人物だ。何分、蘇我氏は荒っぽい氏族で、後に息子の蘇我馬子にいたっては崇峻天皇を暗殺し、その対抗馬の穴穂部皇子を殺害するという考えられないことをしている。稲目も馬子も自分たちの娘を天皇の妃にごり押しだ。後世の藤原氏と同じく利己主義で血縁なんかは関係ないようである。
 
欽明天皇
 
欽明元年正月 皇后を宣化天皇皇女石姫とする。記紀の特徴として前王朝と
         関係のない天皇の正妻は前天皇の皇女を皇后とすることが多い。
欽明元年九月 大伴金村、失脚。早々と稲目の対抗馬金村を追放。大連の
         物部氏と大伴氏はそれまではよく機能していたが、物部麁鹿火
         が亡くなり尾輿の代になると大伴金村と物部尾輿の間にはすきま
         風が吹き始めた。その綻びを見逃さなかったのが蘇我稲目では
         なかったか。金村追放の口火も尾輿が切っている。
欽明二年四月 任那日本府の吉備臣と安羅、加羅、多羅の関係者が百済に
         出向き天皇の詔書を聴く。百済も加え新羅に押されっぱなしの
         任那の再建の話らしい。
欽明二年七月 この頃から任那日本府の内部に新羅に通じる者がいる、と言う
         ことで、長々と百済が日本側に述べている。即ち、任那日本府
         (今で言う日本の駐任那大使館といったところ)には日本から派遣
         された上級役人と現地採用の下級役人がいた。上級役人には
         的臣、吉備臣、河内直など、下級役人には阿賢移那斯(あけえ
         なし)、佐魯麻都(さろまつ)など。阿賢移那斯、佐魯麻都はともに
         百済人と通説は解している。この上級役人と下級役人は上下
         転倒し、下級役人の阿賢移那斯、佐魯麻都が上級役人である
         的(いくは)臣、吉備臣、河内直を仕事の上で指図する始末。特に、
         河内直は日本から派遣されたにも関わらず、完全に新羅のスパイ
         らしく、欽明五年十月に百済の使人が日本に出向き、河内直、
         阿賢移那斯、佐魯麻都の罷免を要求したが、報勅なしと言うこと
         で終わったようである。要するに、欽明天皇は事なかれで終わら
         せた。河内直は百済系帰化人とも、佐魯麻都は新羅の奈麻礼冠
         を着ていたとも。河内直は百済人と見られていたのか。
欽明五年十一月 天皇の詔は「早く任那を建てよ」の一点張り。
欽明五年十二月 佐渡嶋に粛慎(みしはせ)人、来訪。
欽明六年 高麗、大乱。高麗王崩御(12月、3月説あり)
欽明七年正月 百済の使節が帰国。良馬70頭、船10隻を下賜。(本当なのか、
         信じられない)
欽明七年 高麗、大乱。前年12月からの継続か。王の後嗣を第二夫人の子に
      するか、第三夫人の子にするかで争われたらしい。
欽明八年四月 高麗、百済に進攻。百済、日本に救援を求む。
欽明九年正月 天皇、援軍を約束。 
欽明九年四月 高麗の捕虜が言うには「安羅と日本府が高麗に百済進攻を
         勧めた」と。百済の使が言うには「暫く、乞す所の救いの兵を
         停めたまいて・・・」要するに、日本府の親新羅派の役人が百済
         攻撃に使ったら困るかららしい。
欽明十二年 百済聖明王が、百済の兵、新羅、任那の援軍を率いて、高麗を
        伐つ。漢城を獲、平壌を討つ。六郡を回復。
欽明十三年 高麗と新羅が同盟。百済と任那を滅さんことを謀る。
欽明十三年十月 聖明王、釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献上。
        欽明天皇「朕、自ら決むまじ」群臣に歴問いて「礼うべきや不や」
       蘇我稲目「諸国、一に皆礼う。豊秋日本、豈独り背かんや」と。
       物部尾輿、中臣鎌子「蕃神を拝みたまわば、恐るらくは国神の怒りを
       致したまわん」と、それぞれの意見を述べた。
       天皇「情願う人稲目宿禰に付けて、試みに礼い拝ましむべし」
       天皇は新興宗教に弱かったか。稲目は自宅は無論、寺まで造って
       仏像を安置する。後に、国に疫病流行。
       物部尾輿、中臣鎌子
       「復らば、必ず当に慶有るべし。早く投げ棄てて、懇に後の福を求め
       たまえ」と。
       天皇「奏す依に」
       その後、有司(つかさ)が仏像を難波の堀江に流し棄て、寺に火を
       放ったら、大殿(天皇のすまいと思われる)が火災になった。
欽明十三年十月 百済、漢城と平壌を放棄。新羅、漢城を占拠。
欽明十四年八月 百済、使いして日本の援軍を求む。
欽明十四年十月 百済の王子余昌、高麗に出撃。高麗王を東聖山の上に追う。
欽明十五年正月 後の敏達天皇、立太子。
           百済への援軍「即ち、助けの軍の数一千、馬一百匹、
           船四十隻」と決定。
欽明十五年二月 百済より五経博士の交代で、易博士、暦博士、医博士等来訪。
           特に、僧が前回は九人、今回は七人と何か仏教が国教となっ
           た感じだ。
           日本人の僧侶が着々と養成され、後の国分寺などの端緒を
           開いたか。
欽明十五年十二月 日本からの援軍が来たので聖明王が新羅に出撃するも、
            援軍の数が足りず、筑紫からの増派を要請する。王子余昌も
            出撃するも、長く不眠、粗食で戦ってきた息子を聖明王が
            心配し、合流を計るも、途中、飼馬奴苦都により斬首される。
            余昌も敵兵に囲繞されるが、筑紫国造の弓矢による奮戦に
            より撃退。新羅も日本とのその後を考え停戦。
欽明十六年三月 王子余昌、弟の恵を日本に派遣し、聖明王の死を伝える。
        蘇我臣(卿)(おそらく稲目のこと)「汝が国、神をすてて祀らず、
        ・・・神の霊を祭り奉らば、国昌盛えぬべし」と。蘇我稲目は仏教を
        国教としていた百済の王が無様な死に方をし、早々と宗旨替えを
        したものか。稲目の変節に驚いたのは、日本書紀の筆者で蘇我
        稲目大臣を蘇我臣とか蘇我卿とかでぼかしたものか。
        権力者の成り行きによる変節は往々にしてあること。新興の権力者
        と言うべき蘇我稲目がかような行動をとっても驚きに値しない。
欽明十六年七月 この頃から欽明十七年十月にかけて、蘇我稲目等が吉備国、
           倭国、紀国などに屯倉を創設する。
欽明十八年三月 百済の王子余昌即位。威徳王という。
欽明二十一年九月 新羅より朝貢あり。翌年にもあり。
欽明二十三年正月 新羅、任那の屯倉を打ち滅ぼしつ。一本に曰く、21年に
            任那滅ぶという。
欽明二十三年七月 新羅の使い、調賦を献上。しかし、この使いは新羅が任那を
            滅ぼしたことを日本で知ったもののようで、新羅には
            帰国せず、日本に帰化。
    同    主将紀男麻呂、副将河辺臣瓊缶を派遣し、任那奪還を計ったが、
         伝令(密書を紛失して敵に拾われる)や副将(新羅がかかげた白旗
         の意味が分からず、自分独りで白旗を上げて敵に向かったところ、
         新羅は副将が降参したと思い、兵を進め副将を破った)の不手際
         で敗戦。この副将は戦場に女性を連れて行ったようで、いくら
         当時の習いとは言え如何なものか。
欽明二十三年八月 大伴狭手彦、高麗を伐つ。狭手彦、戦利品を天皇と蘇我稲目
            に送る。一本に欽明十一年に大伴狭手彦が百済とともに
            高麗王陽香を破る、と。
欽明二十八年 郡・国、大水いでて飢えたり。人、相(あい)食らう、と。
欽明三十年正月 戸籍が不完全なため、課(租税)を免れるものが多い。
           胆津を派遣し、丁(よほろ)の籍を作らせる。
           丁とは担税能力のある成人のこと。
  同  四月 胆津の籍をほめる。
欽明三十一年三月 蘇我稲目、死去。
  同   四月 高麗の使人、迷って越の岸に漂着。何か後世の高麗の後継国
          渤海の使節に似る。
          高句麗や渤海は航海術が拙劣だったのか。
欽明三十二年三月 坂田耳子郎君を新羅に派遣し、任那の滅びし由を問わしむ。
欽明三十二年四月 天皇、皇太子に「汝、新羅を打ちて、任那を封し建つべし」と
            遺言し、崩御。
欽明三十二年八月 新羅より弔使来訪。
 
 欽明天皇はその出自の不明確さに加え行政能力にも問題があったと思う。それを補佐するために蘇我稲目がいたのであるが、稲目が表舞台に現れてくるのは欽明十三年十月からでそれも仏教を受容するか否かという国政の枢要な話とはほど遠いものである。実際の政策立案や実行は今の官僚に相当する人たちかも知れない。もし、欽明天皇が継体天皇の御子でないならば、大伴金村を即位直
後に追放したのも、自分(欽明)の身元がばれるのを恐れたか、はたまた、蘇我稲目が13年間も潜伏していたのは自分(稲目)が宣化天皇の皇子、上殖葉皇子、火焔皇子の暗殺者であることがばれるのを恐れたか。但し、上殖葉皇子、火焔皇子の暗殺者であることを証するものは何もない。それにしても、欽明天皇があんなに苦労しているのに稲目が対朝鮮半島政策に関して何の献策も行動もおこしていない。稲目が願ったのはもっぱら蘇我家の発展で、国家や天皇家などはどうでもよかったのかも知れない。そもそも蘇我稲目がお手本にした豪族は大伴金村だったと思う。金村は外交交渉を主に、武力行使は従に考えていた大連なので、稲目としては武力援助ばかりを言う百済の聖明王は遠ざけたい人だったのかも知れない。また、当時の日本の国力からして半島経営は無理と考え、うっちゃっておいたのかも知れない。任那滅亡なんて当然の帰結と考えたか。それにしても、蘇我稲目は大臣としては何の役にも立たない人物だったと思う。日本の衰退ここに始まれリ、と言っても過言ではないと思う。また、欽明天皇が三十二年間も統治し、国内に何の問題も起こさなかったことは驚異としか言いようがない。欽明二十八年の「郡・国、大水いでて飢えたり。人、相(あい)食らう」とは何を意味するのだろうか。
 
敏達天皇
 
敏達前紀 天皇、仏法を信けたまわず。(何か反蘇我、反仏教の天皇だったか)
敏達元年四月 物部守屋を大連に、蘇我馬子を大臣とする。
敏達元年五月 以後、三年七月まで高麗の朝貢。
敏達四年二月 天皇、皇子と大臣に「任那のことに懶懈こと莫」とのたまう。
敏達四年四月 吉士金子を新羅に、吉士木蓮子を任那に、吉士訳語彦を百済に
         派遣する。
敏達四年六月 新羅、朝貢。任那の多々羅、須奈羅、和陀、発鬼の貢ぎも合わ
         せて持参。
敏達六年二月 日祀部(ひまつりべ)、私部(きさいちべ)を置く。
敏達六年五月 大別王(おほわけのおほきみ)と小黒(をぐろ)吉士とを百済に派遣。
敏達六年十一月 百済国の王、大別王等につけて、経論若干巻、律師、禅師、
           比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工六人を献る。
敏達八年十月 新羅、朝貢。仏像も献上。
敏達九年六月 新羅、朝貢。日本は納めず還す。
敏達十年閏二月 蝦夷数千、辺境に進出。
        天皇、前例遵守。魁師綾糟等臣従を誓う。
敏達十一年十一月 新羅、朝貢。日本は納めず還す。
敏達十二年七月 任那奪還の本命として百済にいる達率日羅(日本人で百済に
           生まれ、百済の朝廷に仕えていた)の召還を紀国造押勝等に
           命ず。日羅は帰国するも、結局、同道した百済の関係者に
           殺害された。
敏達十三年九月 蘇我馬子、仏像二体を請い、石川の自宅に仏殿を造った。
敏達十四年二月 蘇我馬子、病に陥る。国内に疫病広がる。
敏達十四年三月 物部守屋大連と中臣勝海大夫は、この疫病は蘇我が広めた
           仏法のせいである。
        天皇、仏法を直ちにやめさせるよう指示。
        物部守屋は塔、仏像、仏殿を焼き払う。焼け残った仏像は難波の
        堀江にすてた。
        また、三人の尼僧も鞭打ちの刑に処した。
        この頃、疱瘡が流行。患者は、身が焼かれ打たれ砕かれるようだ、
        と泣き叫び死んだ。これは仏像を焼いた罪だ、と。
敏達十四年八月 天皇、崩御。
        殯宮で馬子と守屋はそれぞれ罵りあい、決定的に仲が悪くなった。
        また、穴穂部皇子、発憤とも。ストレスが溜まっていたのか。
 
 敏達天皇は父欽明天皇の遺言どおり任那奪還を計ったが、何の成果も上げることなく崩御された。国内的には蘇我馬子と物部守屋の仏教の受容を巡る争いばかりだ。六年二月の日祀部、私部の設置は何を意味するものなのだろうか。日祀部は今で言えば神道復古、国家神道の始まりか。私部は天皇のふくれあがる后妃等の費用節減のためか。
 
用明天皇
 
即位前紀 天皇、仏法を信けたまい神道を尊びたまう。
敏達十四年九月 用明天皇即位。蘇我馬子を大臣、物部守屋を大連とする。
用命元年五月 穴穂部皇子、炊屋姫尊を犯さんとして、自ら強いて(敏達天皇)
         殯宮に入る。三輪君逆、拒きて入れず。穴穂部皇子、大臣と大連
         に口に詐りて逆君を殺さんと言う。皇子、物部守屋大連に命じ、
         逆君を殺害。
用命二年四月 磐余の河上に御新嘗。天皇、得病。
      天皇「朕、三宝に帰らんと思う。卿等議れ」と。
      物部守屋と中臣勝海は反対。蘇我馬子は賛成。
      蘇我馬子、群臣等とはかり物部守屋、中臣勝海の包囲網を作る。
      物部守屋を救援しようとした中臣勝海が舎人に殺害される。
      天皇、崩御。
 
 用明天皇の在位は実質一年半で、特筆すべきものは何もない。しかし、用明天皇自身は今の日本人の宗教スタイルに近似しているようで、葬式は仏教で、願い事は神道で、クリスマスはキリスト教でと言うタイプの人だったようだ。政治情勢はいよいよもって蘇我と物部の宗教論争に決着がつくこととなったようである。新興勢力の蘇我氏と旧勢力の物部氏では宗教に対する考え方が、まったく違ったのではないか。失礼ながら蘇我氏は物部、中臣の両氏とは違い神事を執り行うようなことはできなかったのではないか。また、蘇我稲目や馬子には祭政一致のような考え方は全くなく、国家運営は経済的合理性や富の多寡で行うべきだと考えたのではないか。即ち、今流に言うと金、金、金、と言うことになろうかと思われる。蘇我氏は蘇我満智が三蔵を管理した頃から台頭したと言うのも頷ける。
 
崇峻天皇
 
即位前紀
用明二年五月 物部守屋、穴穂部皇子を天皇にしようと思い、遊猟に誘う。
         (解釈には諸説あり)蘇我馬子、炊屋姫尊に奉じ、穴穂部皇子と
         宅部皇子の誅殺を詔す。佐伯連丹経手等二人を殺害。
用明二年七月 蘇我馬子、諸皇子、群臣を集め、物部守屋を滅さんことを謀る。
         泊瀬部皇子以下、守屋の渋河の家に出撃。守屋敗死。物部氏
         本流の滅亡。
         物部守屋の資人捕鳥部万の奮戦と愛犬の忠勤の記載あり。
         (馬子方に対する当てつけか)
用明二年八月 崇峻天皇即位。蘇我馬子をそのまま大臣とする。
崇峻元年是歳 百済から僧侶、寺工等来訪。調を進る。また、使節の帰国に際し、
         日本の尼僧を帯同させる。
崇峻二年七月 近江臣満を東山道に遣わし、蝦夷の国の境を観しむ。穴人臣雁
         を東海道に遣わして、東の方の海にそえる国の境を観しむ。
         阿倍臣を北陸道に遣わして、越等の国々の境を観しむ。
崇峻三年三月 百済に留学していた尼僧等が帰国した。
崇峻四年八月 天皇「朕、任那を建てんと思う。卿等如何に」と。
         群臣「任那の宮家をを建つべきこと、皆、陛下の詔したまうところ
         に同じ」と。
崇峻四年十一月 紀男麻呂以下を大将軍に任じ、二万余りの軍を領て筑紫に
           出で居る。吉士金を新羅に派遣、吉士木蓮子を任那に派遣し、
           任那のことを問わしむ。
崇峻五年十月 天皇、献上された山猪を指さし曰く「何の時にか、この猪の頸を
         断がごとく、朕が嫌しを思うところの人を断らん」
         馬子、己を嫌むらしきことを恐れ、輩者招きあつめて、天皇を
         弑せまつらんと謀る。
崇峻五年十一月 馬子、群臣を詐めて曰く「今日、東国の調を進る」と。
       東漢直駒をして、天皇を弑せまつらしむ。
       駅使を筑紫の将軍のところに遣わし、「内の乱によりて、外のことを
       なお怠りそ」と言う。
 
 崇峻天皇は皇位に就くのはほとんど望み薄の天皇だったようで、妃や嬪に蘇我氏の出身者はいなかった。後ほど馬子があわてて娘の蘇我河上娘を嬪として入内させたようである。が、馬子は崇峻との反りが合わないと分かると、躊躇なく崇峻を暗殺してしまった。これは、自己保身と言うよりは馬子が父稲目の背中を観て育った方が大きいのでは。事実とはまったく確認されていないが、もし稲目が親大伴氏の開化天皇や上殖葉皇子、火焰皇子を嫌い、殺害(開化天皇は病死としても、両皇子を暗殺)したと考えるなら、崇峻天皇暗殺は遺伝的要素が大きいのでは。状況も似ており開化天皇の時は物部麁鹿火が前年になくなり大伴氏も主力部隊が任那、百済に行っていた。また、崇峻天皇の場合も物部守屋が用明二年七月に殺害され、紀男麻呂以下の戦闘部隊も筑紫に滞在していた。要約すれば、蘇我稲目・馬子父子は大伴室屋・金村のような宮廷貴族にはなれなかったと言うことだ。
 
 
 
 
     
 
 
 
 
 
 
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