継体天皇、安閑天皇、宣化天皇

 継体朝は、日本書紀に引く「百済本記」の「又聞く、 日本の天皇及太子・皇子、倶に崩薨」の文面より三代で終わったと解せられる。もっとも、上記の「日本」とか「天皇」とかは当時はなかった言葉のはずで、「百済本記」はいつ頃書かれたものなのだろう。また、上記天皇は継体天皇ではない、という人もいるが、一応、継体紀最後部に書かれたものなので継体天皇と解する。従って、次の欽明天皇は継体天皇とは何のつながりもない言わば赤の他人と考えられる。とは言え、宣化紀には興味のある記録が載っている。宣化天皇は古事記では三名の皇子、日本書紀では二名の皇子がいたようになっている。(或いは、日本書紀でも三名でもう一人は幼児でなくなり天皇陵に合葬された皇子か)宣化紀には一人は上殖葉皇子(丹比公、偉那公の祖)又の名を椀子(まろこ)というとなっている。もう一人は火焰皇子(椎田君の祖)という。ここで言う椀子(まろこ)の意味であるが、忍坂日子人太子亦の名は麻呂古王(古事記)とある。或いは、椀子とは太子のことか。さすれば、継体朝の断絶を回避すべく宣化天皇が息子を太子に立てたが、それに反対する勢力(蘇我稲目か)が宣化帝の死とともにその皇子たちを殺害したとも考えられる。宣化帝は大和の旧勢力に配慮しつつも大伴氏への肩入れが強かったので、蘇我稲目はそれに不満だったのでは。稲目がその後歴史の表舞台に現れるのは欽明天皇13年10月である。雌伏13年かどうかは分からないが、稲目は今流に言うとじーっと時効の完成を待っていたのでは。 しかし、この時代は失礼ながらにわか天皇がその地位に就いた割には日本の歴史の転機となった時代である。
継体天皇の事績
継体元年正月 天皇、樟葉宮へ行く。
  同 二月 天皇曰く「民を子として国を治ることは、重き事なり。寡人、
        不才して、称ぐるに足らず。顧請慮を廻して賢き者を択べ。寡人は
        敢えて当らじ」と。統治の基本を述べたものであろう。
        この時即位する。
        大伴金村の進言により手白香皇女を皇后とする。
  同 三月 継体天皇と手白香皇女の間に欽明天皇が生まれる。
        (翌年のことか。間柄だけを述べたか)
       天皇曰く 「帝王躬ら耕りて農業を勧め、后妃親ら蚕して、桑序を
       勉たまう。・・・・・有司、天下に普告いて、朕が懐わんことを
       識らしめよ」北国のご出身の方だけあって、ことのほか
       「飢え」と「寒さ」には敏感だったようだ。
継体五年十月 山背の筒城に遷都。
継体六年四月 穂積臣押山を百済に派遣。後段では哆唎国守となっている。
継体六年十二月 百済が任那国の四県を要求。穂積臣押山は賛意を
           大伴大連金村へ伝え、金村も承認して物部大連麁鹿火を使者
           として難波にいた百済の客に勅宣を伝えようとしたが麁鹿火の
           妻が反対。麁鹿火は仮病を使い別の使者が代わったが、
           皇太子(後の安閑天皇)も日鷹吉士を派遣し取り消しを計ったが、
           百済の客の反駁にあった。
           流言に「大伴大連と哆唎国守穂積臣押山と、百済の賄を
           受けたり」と。
継体七年六月 押山と共に五経博士段揚爾が来訪。段揚爾は帰化ではなく、
         交代制による百済からの派遣で当時としては画期的な制度だった。
継体七年十一月 己汶、滞沙を百済に賜う。
          伴跛国も己汶を要求したが拒否。
継体十二年三月 弟国に遷都。
継体二十年九月 磐余玉穂に遷都。(一説に継体七年という)
継体二十一年六月 近江毛野臣兵6万を率いて任那に行き、新羅より南加羅、
            喙己呑の奪還を計る。しかし、途中、筑紫で筑紫国造
            磐井の反乱に遭い進めず。
継体二十二年十一月 物部大連麁鹿火が磐井を誅する。
継体二十三年三月(事実は九年二月のことという) 百済王、穂積押山臣に
            加羅の多沙津を所望。押山、了承。
            物部伊勢連父根・吉士老等を派遣して百済王に多沙津を
            賜わろうとしたが、加羅王が「この津は当初より我が国の地」
            と抗議。父根等ご下賜を取りやめて帰国。録史(下級事務官)
            を派遣して百済に賜る。
            加羅・新羅の反日本連合成立。加羅王、新羅王の娘を娶る。
            近江毛野臣を安羅に派遣。安羅にて詔勅を聴かせる。
            出席者、百済は将軍君尹貴等。新羅は夫智奈麻礼等。
            新羅の麻礼は低い官職だったようだ。
継体二十四年四月 任那王、己能未多未岐、来朝。
            大伴金村に「新羅が応神天皇以来の封土に変更を加える
            ような越境攻撃をしてくる。任那を救ってほしい」と。
            近江毛野に新羅と任那の調停を命ず。近江毛野、新羅・百済
            の王を呼ぶも両国とも王は出席せず、代理人が来訪。毛野は
            激怒する。新羅の代理人は王を呼びに行くが、またもや
            代理人と兵数千人がやって来た。
継体二十四年九月 任那から使者がやってきて、毛野臣の任務懈怠を述べる。
            日本人と任那人の間の子の帰属の争訟が多くなったが、断を
            下せないので「くがたち」を以て決着を図っていた。
            しかし、ただれ死ぬ者が多かった。
            天皇、近江毛野臣を召還。毛野臣帰還途中対馬で病死。
継体二十五年二月 天皇崩御。但し、継体二十八年説あり。
 この後に「又聞く、 日本の天皇及太子・皇子、倶に崩薨」の文がある。これをどう解するかだが、通説は継体天皇が初の譲位をした何て言っているが、従来の例ではまず皇太子を立て(安閑は即天皇)、その後崩御、新天皇が践祚、と言うのが一般的。継体天皇の時は皇太子がいない。安閑天皇だったのか欽明天皇だったのか。それをぼかすために譲位としたのか。「倶に」とは同時という意味か。安閑天皇在位二年、宣化天皇在位四年と、ともに在位期間が短く、後日、百済で一括して記したためこういう表現になったものか。私は、やはりこの天皇は継体天皇、太子は後の安閑天皇、皇子は後の宣化天皇と解したい。即ち、三人の天皇は親子の関係にあり、欽明天皇なんてどこにも出てこない。とにもかくにもこの表現では、継体、安閑、宣化の系譜と欽明の系譜とは違うと言うことだ。
 ところで、継体治世はよく行っていたのか。私は継体天皇(内政)と大伴金村(外政)の双頭政治だったがよく行っていたと思う。何分にも継体紀はそのほとんどが韓半島の調停や仲裁に当てられており、且つ、実際は金村が任那に派遣したであろう近江毛野臣の経験・能力不足に基づく失政から先方での事態収拾が失敗し、金村に対する諸豪族の不満が鬱積して行ったのではないかと思う。
安閑天皇
継体二十五年二月 継体天皇からの譲位により即位。
安閑元年三月 仁賢天皇皇女、春日山田皇女を皇后とする。
安閑元年十月 妃たちの老後のために屯倉を与える。
安閑元年閏十二月 大伴金村と共に今の大阪府三島郡へ出向き、屯倉の
            創設を図る。
   同       豪族子女の窃盗事件あり。また、武蔵国造笠原直使主と
           同族小杵の国造職争い。
安閑二年正月 五穀豊穣・天下太平なので五日間宴会を行うように、と。
安閑二年五月 膨大な屯倉を創設。但し、屯倉はこの頃から天皇に対する納税制
         になったか。
安閑二年十二月 天皇崩御。皇后と妹の皇女とを、後日、天皇陵に合葬したという。
 安閑天皇は何の意味があってか大伴金村とはかり屯倉ばかりを創設している。皇室の経済基盤を確立しようとしたのか。しかし、召し上げられる地方豪族ばかりが迷惑で、この層の不満も溜まっていったと思われる。或いは、北陸(福井県)から来たので畿内に経済基盤がなくその補強に走ったのかも知れない。しかし、治世二年間では混乱ばかりを引き起こしたことであろう。
宣化天皇
宣化元年二月 大連に大伴金村、物部麁鹿火を任じ、大臣に蘇我稲目、大夫に
         阿倍大麻呂を任ずる。ここで注目すべきは、反継体、反大伴の
         旗頭蘇我稲目を大臣に、次位の阿倍大麻呂を大夫に任じている
         ことである。中央、地方にわたり不満鬱積の継体・安閑と大伴
         コンビに対し、それを察知した宣化が不満分子を政権内に入れて
         融和を図ろうとしたものであろう。
宣化元年三月 仁賢天皇皇女、橘仲皇女を皇后とする。
宣化元年五月 筑紫に来る外国の賓客のため、凶作に備え諸豪族(阿蘇、蘇我、
         物部、阿倍)に命じて稲籾を那津の官家に運ばせた。豪族の名に
         大伴氏がない。実際は、次の大伴氏を任那へ派遣するための
         後方支援(兵糧米)か。
宣化二年十月 天皇、大伴金村に命じてその息子磐(いわ)と狭手彦(さでひこ)
         を任那救援に差し向ける。金村は、父・談(かたり)が半島で戦死
         したトラウマからか武力による紛争解決をためらい外交交渉に終始
         したため半島における日本の権益は狭まるばかりだった。もっとも、
         百済に対する任那四県の割譲も雄略天皇の先例に基づいて行わ
         れたものと考えられる。(「記録の大伴」と言ったところか)それが
         旧来の豪族には不満だったのだろう。そこで、宣化天皇は大伴氏
         の起死回生を計るべく、磐、狭手彦兄弟の派遣となったのでは
         ないか。宣化紀では磐、狭手彦の派遣は成功したように記され
         ている。
宣化四年四月 天皇、崩御。後年、皇后と幼児を合葬する。
 継体帝は元より安閑、宣化両帝とも皇太子を立てることなく、且つ、安閑、宣化は死後はその陵に皇后と関係者を合葬している。これは今までになかったことで、何を意味するのだろうか。また、継体天皇は譲位の日すなわち安閑天皇の即位の日に亡くなっている。それらがない交ぜになって百済本記の「又聞く、 日本の天皇及太子・皇子、倶に崩薨」の表現になったものか。
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