清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武烈天皇

 清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武烈天皇。これらの天皇は果たして実在したのか。
 
 まず、清寧天皇であるが、日本書紀では在位5年の事績を恭しく書いているが、その後半は隋書の丸写しか。古事記にいたっては事績の記載はなく、皇后なし、御子なし、で早々と後継者捜しの内容になっている。要するに、雄略天皇の死後後継者が断絶しその後釜捜しで四苦八苦していたのである。おそらく、重臣たちは大和は元よりその他の畿内の諸国にも後継者捜しの要員を派遣し、山部連小楯もその一人ではなかったか。小楯は針間国の人民、志自牟の新室で宴会をしていたとき、火焚の少子二人が舞う段になり、弟が詠(ながめごと)を歌い身分を明かしたという。これも狡猾な二人の子どもが小楯の焦る気持ちを見透かして名乗り出たものか。その後の古事記には弟の顕宗天皇が歌垣で平群臣志毘と争い、平群邸は昼間は人が多いので就寝中に殺害した話が載っている。これなんかも少年の逸話としては如何なものか。今流に言えば不良少年二人が女性を巡って争っている構図だ。清寧天皇に関して言えば、日本書紀の在位5年をどう解するかによって実在説か架空説に分かれると思う。
 次に、顕宗天皇だが、日本書紀に前紀12月に億計(仁賢天皇)の言った言葉として「貴きことを著して迎えられ賜いしは、皆、弟の謀なり」と。当時、「謀」という言葉がどういうイメージで捉えられていたかは分からないが、今は謀議とか、謀略とか余りいいイメージではない。また、同2年10月条に「稲斛(石)に銀銭一文をかふ」とあり、何か通貨があったかのような表現がある。だが、通説はその頃はまだ金銀貨幣はなかったと見るようだ。月神を壱岐県主が祀り、日神を対馬下県直が祀ると言う。月神とか日神と言えば暦を連想するのだが、何を意味しているのか。単に、天照大神と月読命の話のぶり返しか。同3年には紀生磐宿禰が任那から百済に出撃するも、敗退。彼は三韓の王にならんとし、自ら神聖(かみ)と称(なの)る、と。紀生磐は紀小弓の子大磐に同じ。これだけ内容の濃い在位3年間ではあったが、宴会の話が多い。宴会好きだったのか。「民、用役わるることなし」とか「百姓、さかりに富めり」とか、こんなこと3年間(但し、古事記では8年間)で分かるのか。事実と虚構がない交ぜになっているので、実在したか架空の人物かは五分五分かと思う。
 仁賢天皇はここにかかげる他の天皇とは違い一男七女の御子がある。在位中の事績を列挙すると2年9月 難波小野皇后(顕宗天皇皇后)が仁賢の皇太子時代に仁賢に非礼があったことを悲観し自殺。
3年2月 石上部舎人をおく。
4年5月 的臣蚊嶋、穂瓮君、罪ありて獄死。
6年9月 日鷹吉士を高麗に派遣し、革なめし工を招来。
8年10月 「国中、事なくして、吏、その官に称う」とか「五穀豊穣、蚕麦善収」
      とかの文言あり。
11年8月 崩御。
 何の変哲もない事績ではあるが、この天皇だけが実在の可能性がある。雄略天皇は中国の梁書によると西暦500年頃まで生存の可能性があり、当時としてはかなりの高齢かと思われる。こういう場合は、往々にして雄略天皇は長寿であったが、その子、孫は天皇の崩御前に亡くなっているという場合が多い。当然、天皇の直系の後継者はなく、他へ求めることになるが、仁賢は雄略の娘婿ではなかったか。勿論、記紀の記録でも仁賢は雄略の皇女「春日大娘皇女」を皇后としており、娘婿であることにはかわりはないが、仁賢は雄略の在位中に既に娘婿になっていたと思う。仁賢の家族構成を見ても御子8人中7人までが春日大娘皇女の所生であり、有力者の娘を妻にした場合はしばしばこういうことが多い。即ち、子どもがいないか一人の女性(有力者の娘)に集中して生まれるのである。雄略天皇がいまわの際に大伴室屋に後事を託したのも、星川皇子の反乱の鎮圧などではなく、仁賢体制の護持にあったのではないか。詳説すれば、仁賢は天皇の娘婿であったから当時の慣例として皇族であることは間違いない。しかし、何分、雄略の直系ではないのでその皇位継承についてはいちゃもんを付ける他の皇族や豪族が出てくるのは想像に難くない。また、室屋が孫の金村と同じく、雄略の死後播磨国から仁賢を連れてきたとも考えられないでもないが、(特に、顕宗仁賢を実際に連れてきた山部連小楯は久米氏の後継の氏であり、大伴氏とは関係が深い)室屋は雄略に大恩があり、そんな反雄略的な人たちを選ぶとは考えられない。
 武烈天皇は、武烈紀冒頭より常軌を逸した話が出てくる。「頻りに、諸悪を造たまう」とか「一も善を脩めたまわず」とか「凡そ諸の酷刑、親ら覧はさずということなし」とか、芳しくない話ばかりだ。仁賢11年8月に仁賢天皇が崩御した後は大臣平群真鳥の専横政治が始まったという。平群真鳥・鮪父子は無礼千万といい、大伴金村と計って父子を誅殺。そのほかにも、武烈2年9月「はらめる婦の腹をさきてその胎を観す」「人の生爪をぬきて、イモを掘らしむ」とか、どこか海の向こうの歴史書を見て物まねをしたとしか考えられない。武烈紀に出てくるまともな人と言えば大伴室屋、大伴金村の祖父・孫だけだ。ところで、こんな非人道的な天皇を記紀に挿入したのは誰か。私は平群子首と思う。おそらく、先祖を殺した大伴氏、特に金村は日本史上抹殺しなければならなかった人物と思ったのでは。もっとも、
真鳥、鮪の伝承は平群氏が後世創作した説もある。即ち、平群氏はそんなに古い豪族ではない、と。継体紀の大伴金村と穂積押山が任那四県割譲の見返りに賄をもらったというのも平群子首の作文か。
 以上をまとめるなら、清寧天皇、顕宗天皇、武烈天皇は架空の天皇で、雄略天皇から婿の仁賢天皇とつながれ、継体天皇へと皇位は継承されたのである。但し、仁賢天皇が何天皇の子孫かは不明。また、当時は娘婿が皇位を継承することは皆無なので、雄略天皇の進取の気性がそうしたものと解する。ただ、感じとしては、雄略天皇には兄たちがたくさんいたようで婿殿(仁賢天皇)もその兄たちの子どもの一人(即ち、雄略にとっては甥)ではなかったか。
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