允恭天皇、安康天皇、雄略天皇

 允恭天皇は、記紀では履中、反正の弟と言うことになっている。記紀では反正が後継者を指名せずに崩御したためお家騒動に発展したような記載が為されているが、今流に言えば皇位を巡る権力闘争で、允恭が「固辞」した何て書いてあるのは允恭本人も含んだ血みどろの争いだったか。諸豪族の鳩首凝議の結果、今の御所市朝妻の小豪族「雄朝津間稚子宿禰」が選ばれたのではないか。どうして蘇我、葛城、平群、物部の大豪族から選出しなかったのかと言えば、内乱を恐れたからであろう。当時は未だ諸豪族の地位や勢力などがはっきりしていなかったからではないか。言わば神聖ローマ帝国の皇帝選出に同じだと思う。領地、兵員が少なければ何もできないと思われたのではないか。歴代天皇の治世から見ると比較的長期政権であるにもかかわらずさしたる業績はない。但し、その崩御を悼み新羅王が弔使を送ったと言う。これは允恭が何か外交交渉において活躍したと言うべきか。つらつら思うに、倭が韓半島の六カ国を支配していたならば(倭王武の上表文による爵号から)どうして彼我にその記録が残らないのであろうか。允恭はその事績が子細に記録されていたなら、偉大な大王だったのかも知れない。
 なお、允恭はいわゆる倭の五王の済に比定される。済は世子興との関係は分かるが、先代の珍との関係は不明。珍とは無関係の関係か。
 
 安康天皇は允恭天皇の息子であることは確かなようで、在位2年間の間に兄の木梨軽皇子との皇位争い、大草香皇子の誅殺と血なまぐさい事件ばかりだ。挙げ句の果てに大草香皇子の皇子眉輪王に暗殺されている。
 なお、安康はいわゆる「倭の五王」中、興に比定される。もし安康が興とするならば、位に就くや否や宋の世祖に爵号を授けるべく使節を送っている。当時の倭王(日本の皇尊)とはそんな立場だったのか。おそらく宋から使節が帰って来た頃には安康は亡くなっていただろう。但し、宋書では興の在位は15年くらいか。
 それにしても、どうしてこうも中国と我国の記録に大きな年数の差があるのだろうか。いくら暦のなかった国とは言え先方との交渉で不都合は生じなかったのであろうか。
 
 雄略天皇は、押しの強かった人のようで自ら宋の皇帝への上表文で倭以下六カ国の名を上げ安東大将軍倭国王と称している。但し、珍と済に先例あり。それをまねたものか。南斉・梁でも王朝樹立の度に武へ爵号を贈っている。
 雄略前紀に市辺押磐皇子及び御馬皇子(日本書紀のみ)の殺害のことが載っている。安康天皇が自分の後継者に弟の雄略ではなく従兄弟の市辺押磐皇子をもくろんでいたからと言う。しかし、反正が亡くなった時、どうして甥である市辺押磐皇子を後継者に指名しなかったのであろうか。その前に皇太子にしておくことも可能だ。反正は急死したわけではない。たとえ、市辺押磐皇子の年齢が若くとも履中は平群以下の重臣を補佐役として付けていたはずだ。畢竟するに、これは市辺押磐皇子なんて言う人物はいなかったと言うことだ。市辺押磐皇子は顕宗天皇と仁賢天皇の血縁を正当化するために挿入された人物であろう。現滋賀県東近江市市辺町に伝わる何らかの伝承が取り入れられたものか。例えば、市辺に仲の悪い兄弟の豪族が住んでいて兄か弟が従者と狩りに出かけたが、一方が他方を主従共々殺害したと言う類の話。従って、雄略が市辺押磐皇子を暗殺したと言うような話はなかったと思う。また、その仲の悪かった兄弟のモデルは沙沙貴山君韓袋と同倭袋だったかも。雄略は市辺押磐皇子なんて言う人はまったく知らなかったと言っても過言ではないと思う。
 平群臣真鳥を大臣、大伴連室屋、物部連目を大連にした。
雄略二年十月 史戸(ふみひとべ)、河上舎人部(かはかみのとねりべ)をおく。
         天皇の性格は、「天皇、心を以て師としたまう」(自分を正として、
         人に相談しない)
         ただ、愛寵みたまうところは、史部の身狭村主青(むさのすぐり  
         あお)、檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)等のみ。
         青・博徳は朝鮮から来た中国人のようで「倭の五王」の一人「武」
         の上表文を書いた人かとも言う。二人は二度「呉」(南朝)へ渡って
         いる。呉からの朝貢(雄略六年四月)に対する答礼かとも思うが、
         中国が我が国に貢物を持ってくるなど全く考えられない。何でも
         先方から来たものは中国からの貢物となっているようだ。
雄略七年 吉備下道臣前津屋を誅殺し、吉備上道臣田狭を任那国司に左遷
       もしくは殺害。雄略は「臣」の姓を持った人を毛嫌いしていたようで、
       平群臣真鳥を大臣に任命したと言っても長期政権と思われる雄略朝
       にあって何の活躍もしていない。まあ、臣とは江戸時代で言うと外様
       大名に相当する地位で譜代大名に相当する「連」の方に心が傾いて
       いたのであろう。今わの際には大伴室屋大連を枕頭に呼んで後事を
       託している。後日、雄略の遺詔のとおり吉備稚媛と雄略との間の
       皇子星川皇子が反乱を起こし、それを大伴室屋が鎮圧した。大和の
       小豪族の息子だった雄略にとって鉄や塩を産し、食糧事情も良かった
       と思われる吉備は何としても完全掌握しておかなければならない
       地域だったようだ。
雄略八年二月 身狭村主青、檜隈民使博徳 呉国に出立。十年九月 帰国。
         雄略朝が外交使節の行き来や、具体的日本側担当者の名を
         記録した最初では。魏志倭人伝は中国の記録で、はっきり
         した和名が分からない。
         この頃、新羅は倭と袂を分かち高句麗の庇護を求めたようだ。
雄略九年三月 天皇、親から新羅を伐たんと欲す。
         神、天皇に戒めて曰く、「な往しそ」と宣う。
         紀小弓宿禰、蘇我韓子宿禰、大伴談連、小鹿火宿禰等、新羅に
         派兵。
         大伴談連及び紀岡前来目連 戦死。
         紀小弓宿禰 陣中にて病死。
    五月 紀大磐宿禰(小弓の子)、小鹿火宿禰、蘇我韓子宿禰内紛を起こす。
        韓子が大磐に殺害さる。大伴室屋大連が紀小弓の妻からの依頼に
        より紀小弓と大伴談の墓を田身輪邑に造る。
        小鹿火宿禰 紀小弓宿禰の葬儀に参列するため帰国するも、紀大磐
        と共に奉仕はできないと言って角国(つぬのくに)に定住する。
 ここで思い起こされるのは応神天皇の時代に該当すると思われる好太王碑文である。倭の軍隊は積極的に軍を進め今の北朝鮮まで遠征している。それと比べると雄略天皇の武将たちは戦地で内紛を起こし、何の成果も上げずに全軍四散の憂き目にあっている。これは天皇親征を断行したからと言って解決する問題ではない。誉田別と大鞆別のコンビと雄略との力の差が如実に現れている。
雄略十年九月 身狭村主青等ガチョウ二羽を携え帰国。
         わざわざ中国まで行ってガチョウ二羽とは驚きだ。
雄略十二年四月~十四年一月 身狭村主青等呉へ出発及び帰国。
             帰国に際しては、呉の使節と共に機織り職人や縫製の
             技術者を連れてきた。
雄略二十年~二十三年 高句麗が百済を伐つ。雄略は任那の一部を百済に割譲
               した。二十三年には筑紫の安致臣、馬飼臣等が高麗を
               撃つ、とあるが信じられない。
雄略二十三年八月 雄略天皇崩御。
 大伴室屋大連と東漢掬直に遺詔した内容で注目すべきところは、
 一本に云わく「星川王、腹悪しく・・・不幸して朕が崩なん後に、当に皇太子を
害らむ。汝等民部(かきべ)甚多なり。努力相助けよ。な侮慢らしめそ」
 私の注目する句は「汝等民部(かきべ)甚多なり」と言うところでありまして、もちろん、天皇は皇室の 護持を託したのでしょうが、雄略朝を画期とするならば、大伴室屋は豊富な部曲を駆使して、後世で云う 勅撰和歌集の編纂の原型とも言うべき「万葉集」の編纂や、古事記や日本書紀の原型ともうべき国史編纂 を始めたのはこの時ではなかったかと思うのであります。また、埼玉県の稲荷山古墳出土太刀の銘文や熊 本県の江田船山古墳出土太刀の銘文に見られる万葉仮名の全国的普及、暦法の改革など当時としては画期
 的な政策が断行されたことは間違いないと思うのであります。
  万葉集の冒頭に雄略天皇の御製がかかげられているのも、万葉集が雄略天皇の時代に編まれたことを意 味するものであり、それまでは皇尊とか大王と言われた類の人を無秩序に並べていたのを代数等を加え今 の記紀にあるような形にしたのもころころではなかったか。万葉仮名も源流は中国にあると思いますが、 (魏志倭人伝の日本の地名、人名は万葉仮名風)埼玉県の太刀も熊本県の太刀も同じような文字を用いてお り或いは当時既に辞書のごときものがあったのかも知れません。但し、一般的には双方の鉄剣は奈良県
 (当時の中央)で造られたと考えるのが普通と思います。 
 
 
       
          
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