履中天皇と反正天皇

 履中、反正両天皇はいわゆる虚弱体質だったのか、年齢においても履中64歳、反正60歳と、父の仁徳83歳や祖父の応神130歳よりもかなり若くして亡くなっている。(年齢は古事記による)その分皇子たちの数も少なくいずれも後継者はいない。何か仁徳天皇が允恭天皇に向かって「汝患病すといえども、ほしいままに身を破れり。不孝、孰れかこれより甚だしからん。其れ長く生くとも、遂に継業すること得じ」と言ったことになっているが、これは仁徳(大鞆別か)が履中もしくは反正に言った言葉であろう。そもそも允恭は仁徳(大鞆別)の子どもではない。皇位も三世代くらいで血縁をつなぐことができなくなるようだ。もし、仁徳を大鞆別と仮定するならば、厳しく生きてきた
大鞆別にとって、おそらく当時の平均寿命にも満たずに亡くなった履中、反正は不肖の息子であり、父として厳しく叱責したのではないか。
 履中天皇は今流に言えばアルコール中毒気味(そのために短命だったか)
 だったようで、その割には短期間に業績を残している。
 履中2年 蘇我満智以下重臣に国政を担わせている。本人が体調不良のため
       か。
 履中4年 諸国に国史(ふみひと)を設置。
 履中6年 蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興す。
 記紀には外交交渉の話は出てこないが、蘇我満智が独占的に行ったか。
 反正天皇に至っては何の事績も記載されていない。国政は前述の重臣が担っ
 たものか。
 なお、履中と反正はいわゆる倭の五王のうち讃(履中)、珍(反正)に比定されて
 いる。記紀には全く宋との外交交渉の話はない。古代日本では外交交渉は特定
 の人が行い、その記録が残りづらくなっているのか知らん。邪馬台国の件も日本
 にはないに等しい話だ。
 宋書では讃(履中)の治世は記紀の記録よりもう少し長かったようだし(少なくとも413~430年)、以前は熊本県の江田船山古墳から出土した太刀銘にその名が記されているとされた反正は雄略天皇の間違いとされた。当時、そんなに速く帝位の交代を地方で知ることができたのか、と思ったが、やはり誤りだったようだ。讃や珍が単に爵号をもらうだけ、或いは、先帝がなしえなかった高句麗との戦いで勝利するために後ろ盾になってもらうだけで宋に使いしたのか。記紀では履中、反正の段では全く朝鮮半島での戦の話は出てこない。
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