応神天皇と仁徳天皇

 記紀では応神天皇と仁徳天皇は親子と言うことになっている。私見では強いて言えば兄弟である。応神天皇は筑紫の蚊田の生まれとなっているが、これは好太王碑文に見られるように、当時、日本と高句麗が大々的な戦争を繰り返しており、そのため九州に長期滞在していた応神(これは大鞆別か)を後世の人が九州の人と勘違いしたためかと思われる。(日本書紀では神功紀を設けて、韓半島への出兵や三韓征伐、はたまた卑弥呼の話まで出てくるが、これはこの頃の情況を魏志倭人伝等の外国の歴史書で解読し、誤解、想像等で日本流に創作したものであろうか。しかも、主役は神功皇后と誉田別である。こんなところに女帝まがいの人が出てくるのは魏志倭人伝の卑弥呼を狗奴国の男王卑弥弓呼と戦った人物と勘違いしているのでは。もっとも、神功皇后は男装していたらしい。神功紀の実体は、おそらく、誉田別と大鞆別の朝鮮出兵だったと思う)
 応神天皇の時代に特徴的なのは、韓半島で北部の高句麗が南進したことにより多くの難民が来訪したことである。応神七年九月には高麗人、百済人、任那人、新羅人がどどっとやって来たことが記されている。また、なぜかこの人達は土木作業に長けていたのか、その後の応神・仁徳紀には用水池築造や潅漑溝の掘削、田地開発等の記事が多い。また、蝦夷にも厩坂道を造らせている。しかし、すべてが難民とは思われない。応神は前回述べたように誉田別と大鞆別の二人を一人の応神天皇として創出したもの。誉田別と大鞆別は九州と韓半島に分かれて高句麗の好太王と大規模な戦争を行っており、これは単に百済、任那、新羅などの援軍要請に応じたと言うより日本側の事情や目算により行われた部分があるのではないか。それに、韓半島からの難民流入と言ってもその実体は誉田別、大鞆別の韓半島進出による戦利品(めぼしい物資がなかったので人材を戦利品として連れてきた)ではなかったか。その人材により意識したかどうかは分からないが、倭国の技術革新がはかられたのではないか。
<国運を賭してまで遠征する必要はあったのか>
考えられる理由は以下の如し。
 1.鉄の取得
 2.人( 阿知吉師、和邇吉師など)、書物(論語十巻、千字文一巻など)、技術
   (韓鍛、呉服など)の導入
 3.高句麗の進入を防ぐ
 4.倭の領土の拡大
 1. 鉄は当時の最重要軍事、民生用物質だっただろうが、日本に韓半島より
   大がかりに輸入された形跡はない。当時の鉄の需要は国産でまかなわれ
   ていたのではないか。それに、誉田別、大鞆別コンビは好太王碑によると、
   当時の鉄の産地任那より可成り奥深く今の黄海北・南道にまで進出して
   いる。但し、黄海北・南道に鉄鉱山があったとする説もある。これが理由で
   あったとしても失敗したに違いない。はっきりとは分からないが、もし朝鮮
   半島産の鉄が大量に導入されたなら、それは北部九州に多く、実用的な
   ものであるはずだが、鍬、鋤の類が出土したとは余り聞かない。
   但し、神功紀では摂政52年百済の鉄鉱山の話がある。鉄も遠征の目的
   の一つであったことは間違いないのであろうか。倭人は鉄を求めてかなり
   以前より韓半島南部に定住しており、採掘した鉄資源は地元で消費して
   いたのかも知れない。
 2. 人、物、技術の導入。これはある程度成功したが、これで戦争を始めたとは
   思われない。それに、記紀にはいろいろな先進文化を韓半島から導入したよ
   うに書いてあるが、実際には中国から直接取り入れたのではないか。当時
   の日本人の知識では外国と言えば高麗、百済、任那、新羅、加羅などが関
   の山だったか。朝鮮半島の書物を参照しているのは奈良時代の官僚だけ。
 3. 高句麗の進入阻止。当時、誉田別と大鞆別がどれほど高句麗に脅威を
   感じていたかは分からないが、必要以上に高句麗領に進入しているので
   これは考えられる。
 4. 後世、豊臣秀吉も全国統一を果たしたら朝鮮半島に進出した。当時は
   景行天皇により関東から九州まで征服が完了し、誉田別、大鞆別の兄弟
   が大陸へ目を向けてもおかしくはない情況だった。
   誉田別、大鞆別は父景行天皇と共に拡張主義に走っていたから十分に
   考えられる。
 以上より誉田別、大鞆別の朝鮮出兵は「高句麗の進出阻止」と「領土拡張」が主因と考えられる。何も百済等の援軍として行ったのではない。倭独自の思惑で出兵したものである。但し、神功紀では獲得した領地を百済等に与える一方だ。属領任那日本府があって百済等の諸小国はその服属下にあったとする説もある。間接的な領土拡大。また、神功紀にはたくさんの日本から渡った将軍の名前が出てくる。それらを束ねる人はやはり誉田別か。
<応神の遠征中、誰が中央の政(まつりごと)を行ったのか>
考えられるのは、
 1.武内宿禰
 2.五百城入彦命
 3.香坂(かごさか)皇子、忍熊(おしくま)皇子
 4.景行天皇の皇后
 1.武内宿禰
 武内宿禰は、今の和歌山県出身でどのような縁で景行天皇とお近づきになった
 のかは定かではないが日本書紀では景行天皇の御代3年には武内宿禰の
 出生のこと、また、25年には北陸、関東、東北を巡察のことが書かれている。
 しかし、通説は架空人物説であり、非実在説と思われる。私見を述べさせてい
 ただければ、武内宿禰が仕えたのは忍代別、誉田別、大鞆別の三代、二世代
 の天皇であり、その存在まで否定すべき年齢ではないと思う。また、後世の
 追記と言う、因幡国風土記逸文に言う草履を残して行方不明になったという
 話も、今で言う徘徊老人を連想させる。さすれば、かようなご高齢の老人が
 国政をになったとは考えられない。
 2.五百城入彦命
 景行天皇の第三の皇太子として出てくる。成務天皇に何かがあった場合の
 予備的な皇太子という。記紀の内容では事績不明の皇太子だが、事実は
 誉田別、大鞆別が外征している間は国内で政を行っていたか。可能性は
 大なる人だ。なお、五百城入彦命や垂仁天皇や崇神天皇の名前に「入」
 の文字が入っているが、これは現代流に言うと「養子」を意味するのでは
 ないか。景行天皇は子どもが八十人もいるのにどうして養子なんかが必要
 なんだ、と思うのが常識的だが、戦国時代にも諸大名の合従連衡のために
 実子と養子・養女が混在している大名が多かった。五百城入彦命は魏志
 倭人伝に言う伊聲耆の息子か、はたまた、垂仁・崇神の前政権につながる
 人物ではなかったのか。古代より人々は人智をめぐらして、その存亡の危機
 を乗り切ったのではないか。養子縁組もその一つだったか。但し、記紀の雰
 囲気としては景行天皇は自分の後継者として恩人の息子である五百城入彦命
 を当てようとしていたのではないか。邪魔になってはまずいと思い、実子の
 誉田別と大鞆別を自分が行きそびれた今の鹿児島県に追いやり五百城入彦命
 の憂いを解いたものと思う。二人は二度と大和国には戻らぬつもりで出発し
 たが、伊覩国で県主を集めて作戦会議を開いたところ熊襲国はだめ、韓国なら
 いいとなったのではないか。韓半島の王とならんとして、誉田別は前線司令官、
 大鞆別は後方支援隊長として戦に臨み、百済、新羅は簡単に降伏したが、高句
 麗は、断然強く、10年間の駐留の間これという軍事的成果もあげられず、尾羽
 打ち枯らし帰国したものか。無論、大和に帰国したら、五百城入彦命に「お前
 たち、何しに帰ってきた」としかられたのではないか。記紀にあるような香坂
 (かごさか)皇子、忍熊(おしくま)皇子との争いはなかったか。何分にも二
 人は腕力では国際級だったので五百城入彦命も腕力にはうったえなかったよう
 だ。加えて、二人に大王の地位まで譲っている。譲った理由は、二人から戦の
 すさまじさを聞き、高句麗が倭国に攻めてきた場合、対応を二人に任せようと
 したためか。
 3.香坂(かごさか)皇子、忍熊(おしくま)皇子
 記紀の応神天皇の項に出てくる同天皇の異母兄。この人達が大和の正統な
 皇尊で応神は九州からの外来者と言う説もあるが、果たして本当か。
 いずれにしても二人は架空説もある仲哀天皇の子とされ記紀では回りに重臣が
 いたように書かれているが、記紀の記載からして二人で国政まで担ったかは疑問。
 4.景行天皇の皇后
 当時は八坂入媛命か。これは神功皇后の例に倣ったものであるが、一般的には
 神功皇后は架空の人とされ、当時は卑弥呼などの女性執政はあったものの、
 皇后の執政の話は余り聞かない。神功皇后は、と言うと、記紀の内容から
 韓半島に渡った誉田別の記録を彼女に当てたものと思われる。住吉三神(これは
 元々は大伴氏の氏神か)は大鞆別に関わる話かとも思われるが、神功皇后の
 段に急に出てくる。ここいらは誉田別と大鞆別の話が混合している。要するに、
 当時の人は朝鮮出兵に後に大王となる二人の将軍がいたとは想像だにできず、
 その話を神功皇后と応神天皇(特に、日本書紀)にしたのでは。従って、皇后
 の執政などはあり得ない。
 しからば、誉田別の治世の事績は神功紀(一部、仲哀紀)でたどることができるが、大鞆別の九州での搾取の話は記紀のどこに出てくるのか。
 結論を先に言うと「どこにも書いていない」となるのだが、この両帝の時代はやたらに土木事業が多い。その多くは後世の天皇の事績をこの時代に持ってきたものかと思われるが、思うに、田地の開拓や堀・潅漑溝の開削、堤防の築造などは、延べ180万人も掛かったとされる両帝(応神及び仁徳)の陵墓を造営するための人々の食料調達や石材・木材等資材運搬のための田地・水路だったのではないか。このお二人は失礼ながら、はなはだはた迷惑な人で朝鮮出兵と言い寿陵(大仙陵は仁徳67年に着工)と言い、当時の国民に多大な犠牲を強いたようだ。また、仁徳11年の難波の堀江、茨田堤の築造の際に人身御供を立てた話が出てくる。何やら土木事業にはたくさんの犠牲者が伴ったことが連想される。
 なお、神功紀には摂政前記九月に神功皇后が、船舶・軍卒を募ったが当初は兵卒が集まらなかったと言うような話がある。これでは、朝鮮出兵に参加した主力部隊は畿内の吉備氏や大伴氏、紀氏などとなり、九州勢は関係ないこととなる。(九州勢の活躍はせいぜい「物見」程度)しかし、好太王碑文では倭は391年の初出から404年の帯方地方進出まで10年ほどの交戦を記しているので、兵員や物資の全部を韓半島や畿内で調達・徴用したとは考え難く、九州が主力調達地となったのではないか。神功紀を子細に見てみると「神おろし」とか言っている割には、吉備臣の祖鴨別が熊襲国を撃つ、とか、荷取田村の羽白熊鷲を層増岐野で撃つ、とか、山門県に土蜘蛛の田油津媛を殺す、とか、新羅へ出発する前に用意周到に後顧の憂えを取り去り出撃している。また、仲哀紀に岡県主熊鰐とか伊覩県主五十迹手とか穴門直践立とかが出てくるが、こういう県主階層の人たちが徴用の実行部隊になったのであろうか。ちなみに、大鞆別の九州での拠点は仲哀天皇の都する橿日宮か。
追 記
  神功皇后のこと
 日本書紀の神功皇后は「魏志倭人伝」の卑弥呼から作出されたのだろうか。魏志倭人伝における卑弥呼の人となりについては、「鬼道に事え、能く衆を惑わす」「年已に長大なるも、夫婿なく」「男弟あり、佐けて国を治む」「唯、男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入りす」ということのようである。このことを神功皇后と比べると、
「鬼道に事え、能く衆を惑わす」については
 神功紀前紀九年三月 皇后は神主となり、武内宿禰は琴撫(ことひき)となり、
 中臣烏賊津使主は審神者(さにわ)になり、神意を伺っている。
「年已に長大なるも、夫婿なく」については
 我々がこの文章から抱くイメージは、卑弥呼は生涯独身だったという感じである
 が、日本書紀の筆者は、神功皇后は十代で結婚し、その後すぐに夫に先立たれ
 長い間寡婦生活をおくっていたが、その類の人も上記概念に該当するとしたよう
 である。
「男弟あり、佐けて国を治む」について
 神功皇后の家族構成は日本書紀では分からないが、少なくとも弟なる人物は
 出てこない。こじつけて言えば武内宿禰ということになるのだろうか。或いは、
 男弟は男子(おとこみこ即ち応神天皇のこと)とも受け取れる。神功皇后は、
 晩年、皇太子である息子の応神天皇と統治を行っていた。
「唯、男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入りす」について
 これも日本書紀では神功皇后の日常生活は分からないが、神功皇后のご託宣
 を外に向けて発表する人(上記、神功紀前紀九年三月条では中臣烏賊津使主
 であろう)は必要であり、神功皇后にもその種の人がいたことは想像に難くない。
 また、烏賊津使主などと何か食べ物を連想させる名前でもある。そもそも
 「婢千人を以て自ら侍らしむ」人がどうして男のコックを必要としたのか分から
 ない。ここいらが、「魏志倭人伝」のいい加減なところで、婢千人などまったく
 考えられない。「更々相誅殺し、当時千余人を殺す」などとあるように、「千」と
 いう数字が好きだったようだ。
神功紀に出てくる将軍たち
葛城襲津彦、千熊長彦、荒田別、鹿我別の四名である。
葛城襲津彦は、
 神功5年3月、神功62年(但し、百済記に言う新羅に派遣された壬午年(382年)
 は応神天皇の時代という)、応神14年是歳、応神16年8月、仁徳41年3月。
千熊長彦は、
 神功47年4月、神功50年5月、神功51年、神功52年9月。
 百済記に「職麻那那加比跪」とあるのを日本の資料で名前だけが残っていた
 千熊長彦に当てた。事績は日本書紀の筆者の作文。
荒田別・鹿我別
 神功49年3月、神功50年2月。また、応神15年8月に荒田別・巫別とあるのは
 同一人と解されている。いずれも上毛野氏の祖という。
 名前だけで事績不明の千熊長彦をのぞいてはいずれも神功紀と応神紀にまた
 がって出てくる。従って神功紀独自のものはない。
 以上より神功皇后は日本の歴史編纂者(特に、日本書紀の筆者)が、魏志倭人伝を見て卑弥呼に照らし合わせて作出した人物としか思われない。即ち、卑弥呼を日本的に編集したらこうなった、と言うのが正解ではないか。それに、日本書紀が神功紀を設けその都までも書いてあることはどういうことなのだろうか。やはり卑弥呼の「女王の都する所」を意識したとしか考えられない。古事記とは根本的に異なる。
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