景行天皇とは

 景行天皇は、和風諡号を大足彦忍代別という。ここで問題になるのは修飾部分の大足彦である。足彦というのは後世(7世紀前半)の称号でこの時代のものではない。従って、大足彦忍代別というのは後世の造作で景行天皇は架空の人物、と言う説がある。思うに、皇尊や大王の名前は元々は磐余彦とか忍代別とか簡単なもので、それでは君主の威厳が保てぬとばかりに、後世の編纂者が長々と修飾語を羅列したのではないか。修飾語が多いから架空というような判定は如何なものか。
 忍代別は、それまでの「彦」(但し、第二代綏靖天皇は「耳」という)や「入彦」と言う「彦」の範疇とは変わった「別」と言う範疇の人である。即ち、初代の神武天皇から第十一代の垂仁までとは違った文化圏なり地域の人である。
 「別」の付く人は「地名+別」の組合せが多いと言うことで、忍代別も「忍代(地名)+別」と言うことかと思う。名前の彦(全国的にある)、耳(日本海側に多い)、別(畿内以西に多い)は男子に対する敬称か。今で言う何々氏とか、何々さんとか、何々殿とか言った類の言葉かとも思う。別(ワケ)は畿内発祥の言葉として忍代別は畿内のどこかで生まれたものか。しかし、忍代という地名は畿内では余り聞かないところだ。そこで探索するに、但馬に小代(現兵庫県美方郡香美町小代区)、尾白山(兵庫県美方郡香美町村岡区御殿山公園)、因幡に恩志呂(おしろ)神社がある。地名は恩志(おんじ)と言うようですが、後世、恩志呂の呂の字を書き忘れたためと思われる。いずれもそう離れていないところにあり古くはその辺り一帯を「おしろ」と言っていたのではないかと思います。忍代、恩志呂、尾白、小代は今では問題ありませんが、小代、尾白と忍代、恩志呂とは古代にあっては発音が違っていたのではと推測されます。
 ここからは完全な推測の域を出ないのですが、彼は大和の疫病で疎になった大和と但馬の連絡役として大和に行ったものの、見たものは死屍累々の光景でした。忍代別は、当然、そんなところに留まるわけもなく、大和から少しでも離れようとして全国遠征に駆り立てられた。
 景行天皇の全国統一も、はたまた、その後の河内王朝の出現も当然の帰結と言えばそれまでなのであります。大和には都をおけなかったのであります。もっとも、忍代別は当時は既に摂津などの畿内にいたのかも知れません。邪馬台国と狗奴国の戦いに但馬から出征し、戦いの終了後そのまま戦地に土着し、忍代別、即ち、別を後世の党(菅家党など)や組(新撰組など)の組織のことと考えると、彼は既にある種の組織の長だったのかも知れません。景行天皇の都を纏向日代宮とするのもおかしい。ほとんど意味のない都だったと思う。彼は人生のほとんどを全国制覇の遠征に費やし、帰還後はいったん纏向に住んだものの、その後志賀高穴穂宮に都した。ゴーストタウンになんか住みたくなかったのである。
 
<景行天皇の子ども達>
 
 記紀によれば合せて80人の御子がいたことになっている。当然のことである。全国制覇をする過程において、行く先々の豪族を懐柔する手段として先方の女子と結婚したのである(世界史にみるアレクサンダー大王や成吉思汗に同じ)。とは言え、記紀にも手元に置いたのは日本武尊、稚足彦および五百城入彦皇子三人となっている。しかし、この三人は存在が危ぶまれている。それに仲哀天皇も架空の天皇というのが通説的で、景行天皇の本当の御子は次に「別」の文字が含まれる誉田別(応神天皇)ではないか。古事記には大鞆和気命亦の名品陀和気命となっている。大鞆と品陀ははっきりしないが、もし別の付く名が「地名+別」というなら大鞆も品陀も地名であろう。但し、日本書紀では鞆を「ほむた」と訓じ、誉田と鞆を同じ意味のように示唆しているが、鞆は「鞆の浦」と言う地名もあり「陸地から突き出たところ」即ち半島を意味するのでは。全国的には「ツマ(妻)」というもののよう。鞆は方言か。また、誉田と鞆が同じというなら大誉田=大鞆となっていい訳で、実際は「誉田」と「大鞆」となっている。これは明らかに両者は別ということではないか。日本書紀説は俄に信じがたい。大鞆は大伴で万葉集にも出ている「大伴の御津の浜辺」で現在の大阪市住吉区帝塚山あたりか。また、品陀は誉田で現在の大阪府羽曳野市誉田あたりか。しかし、この二地点は距離が少し離れ過ぎている。従って、二人の人物を応神天皇という一人の天皇にまとめたと言えるだろう。即ち、景行天皇には大鞆和気命と品陀和気命という二人の息子がいたことになる。或いは、記紀に書い
てあるとおり三人がいたのかも知れない。ここでは三人目の人は主役とならないので検討を加えることはしない。
 当時、但馬や因幡から戦地に向かった人々は今の兵庫県三田市経由の軍用道路を通って摂津の前線に赴いたのであり、また、邪馬台国(大和国)へ行くのにも今の大阪市住吉区や羽曳野市などを経て、大和川沿いから卑弥呼のいる葛城の地に入ったのではないか。当然のことながら、大伴、誉田の地域は重要拠点であり、忍代別は両地の豪族とよしみを通じ、お得意の「拠点に御子を残す」手法により、また、品陀和気、大鞆和気はほかの大勢の御子達に比べ年齢が高かったせいもあって即戦力として手元においたのではないか。
即ち、品陀和気、大鞆和気は忍代別の両輪として全国制覇を行ったと思う。ちなみに、中国(魏)の使節は今の京都市、奈良市を経由し、纏向の地を通って磐余ないし葛城に至ったのではないか。それにしても、大鞆和気のバックにいたと思われる大伴氏はその後も歴史上に華々しく登場するが、もう一方の誉田氏というのは古代豪族としては聞いたことがない。早々と没落し物部氏に吸収されてしまったと言うことか。
 以上より景行天皇の系譜を総括してみると
 
(記紀の説)
      ・・日本武尊・・仲哀天皇・・応神天皇  
景行天皇・・
      ・・成務天皇
 
(私見)
     ・・誉田別
景行天皇・・         ・履中天皇(大兄去来穂別)
     ・・大鞆別(大雀命)・・
              ・反正天皇(多遅比瑞歯別)×雄朝津間稚子宿禰
 
               ・・安康天皇
 允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰)・・
               ・・雄略天皇
 
 誉田別も天皇の位にあったのだろう。陵墓とされる誉田御廟山古墳は全国規模が第二位の大きさであり、とても地方豪族や皇族の墓とは思われない。また、大鞆別の陵墓は大仙陵古墳であろう。私見を強いて記紀に関連づけるなら誉田別は応神天皇であり、大鞆別は仁徳天皇であろう。しかし、二人は記紀では親子であり私見の言う兄弟ではない。大雀は単に「大きな墓」の意味であり、大雀→大仙陵→仁徳天皇(大雀命)と連想が働いたのではないか。大雀命なんていなかったのではなかろうか。大仙陵の被葬者が分からなくなったので大雀命(仁徳天皇)を作り上げた。架空の話を作り上げるにしても「大雀別」とすべきで「大雀命」はおかしい。
 そもそも、仁徳天皇の四年二月の減税政策にしても自分で無謀な海外出兵をして苛斂誅求を行いその結果やむなく行ったものである。しかし、聖帝となっている。
 いわゆる、好太王碑文によれば辛卯年(391)、倭が朝鮮半島に渡り高句麗と一戦を交えたことになっている。日本書紀では応神三年に紀角宿禰ほか三名が百済に出かけたとある。好太王碑文によると、倭は海を渡るハンディがあるにもかかわらず高句麗と互角に戦っている。これは組織的、国家的戦いであり、倭にとっては総力戦だったと思う。そのときの将軍が四名の豪族とは思われない。海を渡った主将は誉田別であり、九州で後方支援を行ったのは大鞆別だったと思う。大鞆別の九州における人員、物資の調達は過酷を極め九州と畿内の対立は後々まで続いたのではないか。(例として、筑紫国造磐井の乱(527)。但し、同乱は朝鮮半島南部の利権争い、というのが、通説。そもそも、宇佐八幡宮に応神天皇が祀られているのはおかしい。本来なら宇佐津彦、宇佐津姫を祀ればいい話だ。(宇佐祖神社が末社としてある)大鞆別の徴用は今の大分県にまで及んでいたとしか考えられない。大分の人は大鞆別の徳をしたって宇佐八幡宮に祀ったのではないと思う。大元(おおもと)神社、御許山(おもとさん)は大鞆(おおとも)のなまったものか。しかも、宇佐八幡の創建は欽明32年(571)という。大神比義は単に大元神社を山から里へ移しただけか。
 但し、一人が朝鮮半島に渡り、もう一方が九州に残る話は、宣化二年の大伴磐(九州で後方支援)と大伴狭手彦(半島へ渡る)の話がある。兄弟結託して朝鮮半島を攻める話は大伴氏に残ったと言うことか。そもそも、応神三年の紀角宿禰等の派遣の話は百済記を参照して書かれたものという説もある。即ち、日本にはそんな話はなかった。そのほかに、百済記には葛城襲津彦の新羅派遣の話と思われるものもあり、狭手彦と襲津彦は音が似るのでそこいらが混同したか。 
 とにもかくにも、景行天皇は自力でもしくは誉田別および大鞆別の二人の息子と共に大和の実効支配面積を拡大し、当時の日本を統一した人物に他ならない。但し、記紀では日本武尊が息子達の役割を担っているようだ。
 
 
 
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