三輪王朝のこと

  一説に崇神・垂仁天皇の時代を三輪王朝ということがあります。両天皇の本拠が大和三輪山麓にあったからと言う。一応、同王朝の皇尊は記紀では両天皇だけとなっており、和風諡号に「イリ」が付くのが特徴である。イリヒコ、イリヒメがその典型で、次の景行天皇になると大足彦忍代別となり「ワケ」が付くようになる。次代の成務天皇、次次代の仲哀天皇はそれぞれ稚足彦、足仲彦と言い、タラシヒコは後代の諡号となり、架空の天皇との位置づけが為されている。
 魏志倭人伝の邪馬台国の時代は、「倭」即ち日本の国王は卑弥呼という女性で、男王を並び連ねている記紀の記録とは大いに違う。どちらが正解かははっきりしないが、中国(魏)は神武天皇の系統を倭の正統王朝と認めているようだ。これは何も諸王に共立されたか否かにかかわらず、その系統に連なる人を王と認めているらしい。そうなれば、勢い中国から見た日本史は彼女(卑弥呼)の側からの歴史になる。彼女は父祖の地である葛城に住んでいたことも想像に難くない。一方、大王(オホキミ)と称する一派(おそらく、大和朝廷の傘下に入った諸国の王並びに吉備国の中で大和朝廷を支持した豪族)が三輪の地にいた。この時の卑弥呼の尊称はスメラギとかスメラミコトとか言っていたか。(もっとも、卑弥呼(姫命)を尊称とするならばスメラギ等はないはずである)大王は後世の大臣、大連に相当する語とも思われるが、皇尊(スメラミコト)が支配者で、大王はその家臣の類の人だったのだろう。スメラギとかスメラミコトという言葉が使われ始めたのはそんなに古くないと言う説もあるが、例えば、西暦107年後漢へ使節を送った倭国王帥升(スイショウと読むのが一般的)スメラギのスメの音をうつしたとも考えられる。もしそうなら、可成り古い言葉と思うのですが。この場合、倭国王帥升は神武天皇か。イリヒコ、イリヒメの「イリ」の意味についても諸説あるうち単純に「ほかからやって来た者」と考えるなら、ミマキイリヒコは後代の美作(みまさか)のミマであり、イクメイリヒコも美作国久米鄕から出ているのではないかと思っています。もちろん、美作国は和銅6年(713)に建てられたものではないかと言われればそれまでですが(ほかに丹後国、大隅国も建てられた)、ミマサカと名付けられるにはそれなりの下地があったのではないでしょうか。それ故、二人は吉備国から邪馬台国(大和国)へ寝返った土地の豪族と言うことになるかと思う。有り体に言えば、吉備国では弱将だったのでは。ここで問題になるのは卑弥呼女王の集団(葛城王朝というのか)と大和朝廷の傘下に入った諸王の集団(三輪王朝というのか)なのですが、魏志倭人伝でははっきりと前者を「王」、後者を「官」として主従の区別をはかっているのですが、記紀では前者を「巫女あるいは神主」、後者を「天皇」とするもののようで、立場がおかしくなっている。検討しなければならない課題である。
 ところが、その弱将も記紀では御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと・崇神天皇)などと書かれている。また、垂仁天皇にはたくさんの起源譚がある。
 
 <本当に崇神から垂仁とつながれたのか>
 
 記紀では崇神を第10代の天皇、垂仁を第11代の天皇としている。
 崇神天皇の業績としては
 1.疫病の克服
 2.四道将軍の派遣
 3.租税制度の確立
 4.出雲の神宝を飯入根に献上させる
 5.任那の蘇那曷叱智が来訪
 垂仁天皇の業績としては
 1.新羅王子天日槍が神宝を奉じて来訪
 2.野見宿禰が當麻蹴速と相撲を取る(相撲の起源)
 3.天照大神の祭祀を倭姫命に行わせる
 4.物部十千根に出雲の神宝を検校させる
 5.神社に武器を奉納し神戸等を定める 
 6.屯倉を創設する
 7.殉死を廃して埴輪を葬る
 8.五十瓊敷命が高石池や茅渟池を造る
 9.五十瓊敷命が剣千振を作る
 10.但馬清彦に天日槍が持参した神宝を献上させる 
 11.田道間守を常世国に派遣
  このほかにも、都怒我阿羅斯等の話、蘇那曷叱智帰国の話など内容豊富。
 上記のうち崇神天皇の「租税制度の確立」は魏志倭人伝に「租賦を収む」とあって既に租税制度があったようである。また、四道将軍の派遣にも疑問符が付く。結局、崇神は何も行っていない。と言おうか、崇神は、その在位中、疫病対策*に追われ政治家としての仕事は何もできなかったのではないか。しかも、信ずる人はゼロとは思うが、垂仁紀(垂仁二十五年三月倭大神のご託宣)に崇神天皇は短命だったとの説を紹介している。(崇神天皇の御歳は紀では120歳、記では168歳という)
    *このところは記紀で少し違うようで、記では疫病平癒の祈願を主として
     大物主大神だけに祈っているが、紀では、まず、天照大神と倭大国魂
     を天皇の大殿の内に並祭るのは良くないと言うことで両者を分離し、
     その後倭迹迹日百襲姫命が神がかりして大物主大神が現れる。
     しかし、崇神天皇の時代に大和国に天照大神(九州北部)、倭大国魂(大和)、
     大物主大神(出雲)の三神が祀られていたかは大いに疑問である。大和国に
     宗教らしきものを導入したのは事代主命で大物主大神だけを取り上げている
     古事記の方が正解ではないか。大国主命の「国」の概念がまだ大和になかっ
     たので物に置き換えたか。それに、疫病が今の季節性インフルエンザばりに
     すぐに終息したのも疑問。
     
  垂仁天皇の業績らしい業績と言えば、屯倉の創設と殉死を廃して埴輪を造るがある。倉庫としての屯倉は既に存在していたと思うが、荘園的な搾取の手段としての屯倉はこの時代が初出かと思う。埴輪の起源も吉備の特殊器台が変化 したもので野見宿禰が創始したものではないというのが一般的。かと言って、全く垂仁天皇とは関係ないかと言えば、倭彦命の葬儀に際し、殉死を「古の風といえども良からずは何ぞ従わん」と言って廃止を決めている。おそらく卑弥呼の死去の時に、葬儀に出席したか否かは分からないが、連日連夜葛城の方角から人間のうめき声や泣き声が聞こえてきて彼を悩ませたのであろう。まともな人ならノイローゼになってしまう。もし、垂仁が吉備の出身者なら埴輪(特殊器台)は彼の発案により導入されたのかも知れない。また、葬儀担当者を當麻蹴速から野見宿禰に代えたのも殉死などの好ましくない行事を平然と行っている、宮内庁御用達當麻葬儀社を排除しないことには問題の解決はあり得ないと考えたからではないか。野見宿禰のように腕力、土木技術力のある人は古代においてはそうそういるものではない。かなり綿密に仕組まれた制度改革だったと思う。もっとも、垂仁は本来なら卑弥呼と共に殉死しなければならなかった人物で、かろうじてその難を逃れ、慌てて殉死廃止を言いだしたのかも知れない。
 垂仁の時代は外国人のことが飛躍的に多くなる。これは魏の使節が三輪経由で葛城へ行ったのであろうが、崇神、垂仁にとってはあずかり知らぬところなのである。その反動か、二人とも出雲、但馬に神宝をもってこいとしきりに嫌がらせをしている。まるで神宝に両国が外交で重用されている秘訣があるかのように考えているのである。いくら神宝を目の当たりにしたからと言って語学力がつくものではない。ジェラシーもここに極まれりだ。
 以上より、起源譚ばかりだなんて非難されている垂仁紀ではあるが、その内容の豊富さと当時ではめずらしい外国人の話が多い点を考慮すると、垂仁天皇の時代は魏志倭人伝の卑弥呼の時代であり、卑弥呼とは倭姫命ではないか。ヤマタイ=ヤマト、ヒミコ=姫命で、これ以上簡潔な名前はないのではないか。
 崇神天皇はその後の閉鎖的になった壱与の時代の人であり、壱与=豊鍬入姫命ではないか。壱与はそのままでは「イヨ」であるが、台与(トヨ)の間違いとする説も多い。卑弥呼の死後、葛城に三輪の大王彌馬升を立ててみたものの「国中服せず」、結局、台与が倭の王になったのである。それにしても、葛城朝は二人の未婚女性で100年近くも持つとはたいしたものだ。台与・崇神の組合せが内向きになってしまったのは、人材の払底だと思う。卑弥呼ばかりは長生きしたが、難升米以下の諸臣は或いは引退し、或いは亡くなり、後継者が育たなかったのであろう。中国が生口と言われる人のわずかでも帰してくれたなら良かったのに、生口は行った記録はあるが帰って来た記録は皆無の由。
 そのほかに閉鎖的になった理由として崇神五年の疫病の流行がある。「国内に疾疫多くして、民死亡れる者ありて、且大半ぎなんとす」という。これは卑弥呼時代の海外との交流が感染症(今で言う新型インフルエンザか、あるいは感染が長期にわたっているようなので流行性感冒に肺結核などが併発したものか。但し、紀では疫病は2年間で終息したことになっている)の流行を招き、免疫のある中国人は何でこんなことで死んでしまうのか、と思うだろうが、免疫力のない日本人はころころと亡くなってしまったのではないか。卑弥呼も老齢ゆえ使節の一人がゴホンと一回咳をしただけでご臨終と相成ったのかも知れません。昨今流行している彼女は殺害されたと言う説は如何なものか。渟名城入姫命の病気もインフルエンザか。古事記の神床の話も崇神の病臥を連想させる。そもそも奈良盆地は四方を山で囲まれているので後世の平安遷都の原因ともなった水銀中毒もそうだが公害物質や原因菌をなかなか拡散したり希釈したりすることができないようだ。
 しからば、物部十千根に記紀のように書かせたのは誰か。私は崇神天皇だと思う。彼はなかなか頭脳明晰な人のようで、例えば、自分を御間城入彦と言い正妻を御間城姫と名乗らせ、何やら今の夫婦同姓を思わせる発想である。もちろん、日本の回りには夫婦同姓の風習のある国はないので、どこから仕入れてきたのか。また、中国の顰みにならい初めて国史編纂を行ったのも彼ではないか。もっとも、その次いでに上級者である垂仁を自分の下に置き、在任期間が短期な孝昭や仲哀を記録からカットするなど(但し、いずれもほかのところの記録として載っている)けしからん面もある。
 垂仁も崇神も卑弥呼や壱与に寄り添うように生きた大王だったに違いない。従って、両大王は実在した大王ではあろうが、実務は但馬や出雲の人が取り仕切り、政治的にはそんなに大きな仕事をした人達とは思われない。だから二代(場合によっては、四代。しかも、葛城朝のような血縁者ではない)で終わったのではないか。それに、何と言っても邪馬台国(大和)と狗奴国(吉備)の戦いに、相手が元祖国とは言え出陣しないのは如何なものか(古事記)。おそらくその内戦で邪馬台国の主力部隊として戦ったのは但馬や因幡など遠い日本海側の人だったに違いない。
 
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