卑弥呼の終焉

 卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。
 
 垂仁天皇の時代に墓制は大きく変わった。今で言う人事異動で、国土交通大臣は
それまでの大和系の當麻蹶速が更迭され、出雲系の野見宿禰が就任した。しかし、
上記の文を見る限り野見宿禰の改革は反映していないようである。即ち、野見宿禰
は、殉死を廃止し埴輪に代えた。「徇葬する者、奴婢百余人」はそれとは完全に違う。
「大いに冢を作る、径百余歩」も円墳を連想させ、野見宿禰が創始した複雑な形をし
た前方後円墳とは違うような気がする。卑弥呼は大和系の女王であって垂仁以下の
吉備系の大王でもなく、野見宿禰のように出雲系の人でもない。當麻蹶速が築造した
磐余の地にある円墳に眠っているのではないか。従って、前方後円墳である箸墓を
卑弥呼の墓とするのはおかしい。ちなみに、前方後円墳は當麻蹶速系の円墳と野見
宿禰系の方墳(四隅突出型墳丘墓か)を折衷したもの。しかし、野見宿禰は出雲の人と
言っても実際は因幡の人で今の鳥取市徳尾にある大野見宿禰命神社あたりの出身。
出雲風土記飯石郡に「野見木見石次三野」とあるが、人の住まない野原のことかと
思う。当時は出雲の大国主命が因幡の白兎の話に出てくるように、未だ出雲と因幡
は未分化の状態だったのではないか。なお、箸墓の被葬者は比婆須比売命か。「古事
記」に垂仁記の終わりに「太后比婆須比売命の時、石祝作を定め、また土師部を定め
たまいき。この后は、狭木の寺間の陵に葬りまつりき」とある。」埋葬地が箸墓とは違う
が、陵の内装業者(石棺作)と外装業者(土師部)を別けたことがうかがわれる。大型の
陵墓が築造されたのではないか。
 いずれにせよ、記紀の内容はそのまま信じられることは少なく、埴輪の話も学術的
には否定されている。
 それにしても、古代の人事異動は人の命が係った一大事だった。後世も解雇のこと
を俗に「首切り」と言うが日本人の雇用意識というのは古代から繋がっているようだ。
 
 更に男王を立てしも、国中服せず。
 
 私はここの大王の継承順位は、第一位は伊支馬(活目入彦五十狭茅尊・垂仁天皇)
第二位は彌馬升(観松彦香殖稲尊・孝昭天皇)、第三位は彌馬獲支(御間城入彦五十瓊殖・
崇神天皇)、第四位奴佳鞮(足仲彦・仲哀天皇)の順だと思う。ほかに正統大和王朝の
卑弥呼や壹與がいた。
 更に男王を立てしもの男王とは孝昭天皇のことである。孝昭天皇はいわゆる短命・
無能だったので記紀の三輪王朝の記録から外されたのだろうか。或いは、この記載は
三輪系と葛城系の混合体制を意味するものだったのか。
 
 復た卑弥呼の宗女壹與年十三なるを立てて王と為し
 
 壹與(臺與)は豊鍬入姫命と思われる。倭姫命と順序は逆ではあるが、伊勢神宮の斎宮
の原型であろうか。記紀で倭姫命や豊鍬入姫命を単なる伊勢神宮の巫女としたのは誰な
のであろうか。なお、いわゆる三輪朝の記録は物部連遠祖十千根が書き綴ったようで、
彼は垂仁や崇神、特に崇神の忠実な臣下ではあろうが、難升米等の外交活動や卑弥呼や
壹與即ち倭姫命や豊鍬入姫命の何たる人物かは全く分からなかったのである。単なる
神職で政(まつりごと)には与っていなかったのかも知れない。 
 
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