倭とはどんな国(3)

正始六年(245年) 詔して倭の難升米に黄幢を賜い、
         (難升米が魏に重用されている様が分かる。伊聲耆等はどうした
          のだろうか)    
 
正始八年(247年) 倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。
           倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
           その後、また「難升米」が出てくる。
 
         狗奴国はどこか。
         
         前述したように、吉備の反邪馬台国連合で具体的場所は西宮市
         山口町にある公智神社ではないか。もっとも、公智神社は前線
         基地だったかと思う。
          男王卑弥弓呼(彦命)の特定はできない。記紀的に言うと
         吉備津彦命としか考えられない。
 
         載斯烏越とは誰か。
 
         読みは「サシウエ」と読むか。意味は不明。
        サシは記紀の古事記で言う刺国大神、刺国若比売命、日子刺肩別
        命のサシか。刺国若比売命は大国主命の母、刺国大神は刺国若
        比売命の父となっている。
        また、日子刺肩別命は富山県砺波市に関係があるらしく、そちらで
        祀られている。いずれも日本海系の人のようであるが、よく分から
        ない。
         また、「刺(サシ)」も美称のようであるが不明だ。或いは、方言な
        のかも知れない。
          地名では指杭(さしくい)、差組(さしくみ)がある。これならサシウネ
        (刺畝)と読んで農作物の苗を畝に刺す様子を表したものとも考えら
        れる。
           また、神功紀5年に草羅城(さわらのさし)とあり、韓語ではサシは
        城の意味らしい。神功紀47年に沙比新羅とあり、これも関係あるか。
        しかし、これでは載斯烏越は韓語と日本語の合成語のようになって
        しまう。また、履中紀には住吉仲皇子の近習で隼人の刺領巾(さし
        ひれ)という者あり。
         「ウエ」も因幡国一宮「宇倍神社」の宇倍と関係があるか。昔は
        ウヘと発音したらしい。兵庫県豊岡市に穴見郷戸主大生部兵主神社
        というのがある。地元では「おおいくべひょうすじんじゃ」と言ってい
        るようだが、大生部を「おおうべ」と読む説もある。連綿と宮司家が
        続く神社では考えづらいことではあるが、兵庫県には「大上」姓が多
        いことからも「おおうべ」と読むのが正しいのではないか。元は単に
        生部(うべ)神社即ち宇倍神社と同じでは。「大」が付いたのはおそら
        く伊聲耆の子孫と思われる伊福部氏が何かの諍いから、と言おうか
        一族の長たる伊聲耆が魏から帰って来なかったので一族は後日
        処断され、部民に落とされ今の鳥取市へ逃れ「宇倍神社」を創建
        したので、但馬が本家本元だ、と宣って「大」の文字を追加したか
        と思われる。(類似の話として、顕宗天皇の時に、佐々木山君韓帒
        が雄略天皇の市辺押磐皇子殺害に加担し、皇子の子である顕宗
        天皇に賤民とされ山部連のしたの山守部とされたが、子孫は近江
        の豪族となり宇多源氏佐々木氏に取って代わられるまで沙沙貴神社
        の神主をしていた。近江の豪族は同族の佐々木山君倭帒の子孫の
        ことではあるまい)
         但し、伊福部氏は伊聲耆の子孫ではなく因幡国造氏の分家説がある。
        前述の神社名の装飾部分をとって「戸主生部兵主神社」とするとヘヌシ
        ウベとなり「ヘ」が欠落しヌシウエをサシウエと聞き間違えたものか。
        兵主は武器庫の管理者の意味といい、戦況報告にはうってつけの人
        かも知れない。ざっくばらんに言うと、畢竟、サシウエとは刺国大神
        のことで、出雲の人かも知れない。
         もし、刺国イコール大国ならサシウエは「大上」のことか。また、
        大国主命は大国や多国の意味ではなく母の名ないし生誕地を名乗
        っていたのか。要約すれば、穴見郷戸主大生部兵主神社は載斯
        烏越の子孫が彼を祀ったものであろう。それを伊聲耆の子孫が鳥取
        で祀るのは疑問ではあるが、出石には伊福部神社もある。但し、
        伊福部神社は大生部兵主神社のことだ、と言う説もある。また、
        宇倍神社は伊福部氏の祖先を祀った神社とするのが通説のものの
        ようで、武内宿禰は後世の付会と言う。即ち、宇倍神社や伊福部神社
        に祀るべきは伊聲耆であって(記紀的に言うと五百城入彦皇子)で
        あって武内宿禰ではない。
         それにしても、どうしてこうも特定地域に語学堪能者が多かったの
        でしょうか。
         彼らは名前は違っても親子兄弟の関係にあったのでしょうか。
        そもそも、垂仁天皇三年に来朝した天日槍の曾孫清彦が同八十八年
        に出現し、その子田道間守が同九十年常世国に遣わされたとある
        (日本書紀)。但馬諸助以下はその記載するところで親等関係は異な
        るも、どう見ても天日槍を父とし、ほかは兄弟か、はたまた、天日槍
        以下全員が兄弟としか考えられない。彼らは全員同時にやってきて、
        同時に活躍した。
         返す返すも残念なのは、載斯烏越だけが記紀に痕跡が認められ
        ないことである。
         今で言えば邪馬台国の防衛大臣という人なのに。或いは、魏志
        倭人伝には切羽詰まった戦況報告が為されているが、実際は
        邪馬台国と狗奴国の小競り合い程度のことだったのかも知れない。
        或いは、古事記の言う孝霊天皇の御代に、大吉備津日子命と
        若建吉備津日子命が針間の氷河の前に忌瓮を居えて、針間の道
        の口となし以て吉備の国を言向け和しき、とあるのは、邪馬台国と
        狗奴国の争いの痕跡か。 ここにも「針間の道の口」と口の文字が
        見られるが、現在の加古川市には遺称地はないようである。
        もっとも、氷河を加古川と解するのは通説で、果たしてそれが正か
        否かは不明。        
         後の「更に男王を立てしも国中服せず、こもごも相誅殺し、当時
        千余人を殺す」も「白髪三千丈」方式の大げさな表現かも知れない。
        当時の日本の千人と言えば今の十万人にも匹敵したのではない
        か。とても一般常識では考えられない数字だ。
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