倭とはどんな国(2)

 1.其の国、本亦男子を以て王となし、住まること七・八十年。
   倭国乱れ、相攻伐すること暦年。
   (暦年とは二・三年間くらいのことか、また、倭国乱れ、と言っても、今の九州
   から関東までが戦乱に巻き込まれたのではあるまい。吉備と大和の内戦を
   指すのであろう。具体的には畿内一円か)
   乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。
   鬼道に事え、年已に長大、夫壻なく、弟有り。唯男子一人有り、飲食を給し、
   辞を伝え居処に出入りす。
   (共立とは吉備国の大和に下った将軍達と大和の皇尊で共立したものである。
   倭の諸国のすべての王達により共立されたものではない。
   また、卑弥呼が共立されたからと言って戦争が終わったわけではない。
   前線では依然として双方の小競り合いが続いていたのである)
   【卑弥呼は誰なのか】
   大和説 倭姫命、倭迹々日百襲姫命、神功皇后、天皇(日御子)など。
   九州説 熊襲女酋、隼人女酋など。
   倭姫命と解したい。
   *記紀では順序が逆になっているが豊鍬入姫命と対になって出ており、
    魏志倭人伝の壱與(いよ)ないし臺與(とよ)は豊鍬入姫命に符合するのでは
    ないか。
   *卑弥呼も倭姫命も巫女的性格を有する。
   *卑弥呼も倭姫命もすぐれた管理者の性格を有している。
 2.景初三年(239年) 倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて
   朝献せんことを求む。
   【難升米とは誰か】
   通説は「ナシメ」と訓じているようだ。或いは、「ナンショウマイ」とも。
   小生は、「ナシマ」と訓じ、「ナ」と「タ」は同じような発音方法から
   ナシマ → タシマと変化し、但馬と解釈した。もっとも、タヂマとタジマは
   発音が違うと言うかも知れないが「ヂ」と「ジ」は音韻交替しやすいのではな
   いか。具体的に但馬の誰かというと、但馬諸助としたい。諸助は天日槍の子と
   され天日槍は本名は不詳なるも韓半島から来訪した中国人であり、諸助は父か
   ら中国語を、母から日本語を学んだバイリンガルな人だったと思う。それ故か
   難升米は日中双方から重用されている。
   卑弥呼の使節団員は、皆、語学堪能でそれが重用の主因であろう。
   なお、但馬諸助は兵庫県豊岡市出石の諸杉神社に祀られている。子孫も
   文字の分かる人たちだったのだろう。
   難升米は今で言う職業外交官で外務大臣の地位にあったのではないか。
   特に、「魏」を担当したか。もっとも、彼が日本生まれの第二世代の人なら
   中国名も持っていたはずで、事情があったのかも知れないが、そこがはっ
   きりしなかったのは残念。
   【都市牛利とは誰か】
   ツシゴリと読むか。出石心(イズシゴリ)のことか。古事記に丹波の大県主
   由碁理(ユゴリ)とある。或いは、単に逗子碁理(ズシゴリ)かも。
   出石神社は祭神が天日槍で都市牛利も彼に繋がる人とも思われる。古代の
   常として天日槍は出石郷にも小坂郷にも妻がいて都市牛利は出石の方の
   子息か。記紀の誰かは不明。都市牛利は本業は神官か。出石神社の社伝
   では、谿羽道主命と多遅麻比那良岐とが相謀って天日槍命を祀ったという。
   都市牛利と谿羽道主命、多遅麻比那良岐は発音が完全に違うが、或いは
   いずれかの人とも考えられる。今で言う外務副大臣で「新羅」を担当したか。
   但し、名前を日本語的に見てみると、ツシはツチ(土)のことで、ゴリをガリ→カ
   リとすると崖崩れのところを言うらしい。崖崩れの軟らかい土を土木工事に
   利用する人のことか。今でも「土」を移動するにはまず発破をかけて土を軟
   らかくして運ぶ。当時は発破はなかったので天然発破とも言うべき崖崩れ
   を利用したのではないか。何やら、後述の伊聲耆と考え合わせるなら
   古事記の垂仁天皇段の最後部にある「大后比婆須比売命の時、石棺作
   を定め、また土師部を定めたまいき」に符合するのではないか。天日槍
   もそんな人はいなかった、と言うのが通説かも知れないが、「播磨国風
   土記」では、伊和大神と播磨国の国占めで争っており、これは当時の
   産業の米とも言うべき石の争奪戦だったのではないか。都市牛利と
   伊聲耆は前方後円墳創建者であるとともに、その有能さを買われて
   外交官としても活躍したのか。
    ついでながら、天日槍に付いていうと、満蒙系の日光感生型説話とか、
   朝鮮伝来の刀剣文化の人格化とか、太陽海洋信仰とか、いろいろな高邁
   な説があるが、単純に中国本土で政変等があり、韓半島を経由して日本に
   やって来た漢民族の一団と解した方がいいのではないか。天日槍はその一
   団のリーダーなのだろうが、何分にも中国名で名前が日本語化出来なかっ
   たと言うことではないか。天日槍一行は後世の秦氏と同じく知識や技術に
   秀でた人々よりなる複合集団ではなかったかと思う。記紀に書かれている
   天日槍伝説は後世の付会か。
3. 景初三年十二月
   親魏倭王卑弥呼に制詔す。
   汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・斑布二匹二丈を奉り以て到る。
   (生口は奴隷ではあろうが、日本的に言うと舎人、采女の類の人であろう)
   今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、絳地交龍錦五匹・絳地粟十張・
   絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。
   また特に汝に紺地句文錦三匹・細班華五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀
   二ロ・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各ヽ五十斤を賜い、皆装封して難升・牛利に付す。
   (何かものすごい答礼品ではあるが、少し難癖を付ければ、日本にある三角
   縁神獣鏡は、紐孔の形が長方形で中国の円もしくは半円とは違うとか、縁が
   盛り上がっているとか、紀年銘を持つ鏡の漢文がおかしいとか、中国では
   不良品として倉庫に眠っていたものを日本に押しつけたか。
    日本から渡った生口に作らせたけれど習作で日本にしか贈れなかったもの
   ばかりか。もっとも、中国でも鏡を造る産地はそうたくさんあるわけではなく、
   後代の(南)宋の紹興(紹興酒で有名)では三角縁神獣鏡が出土するという。
   鏡の銘文にある陳ないし陳是さんは本籍日本人で紹興で鏡作りの技術を
   習得したか。彼は日本人鏡作り生口の責任者だったのでは。京都にある
   某大学の先生から漢文がへたと言われ、日本人の語学力なんて当時も
   そんなものか。なお、魏の紀年銘を持つ鏡が、(島根県雲南市<景初三年>、
   群馬県高崎市・兵庫県豊岡市・山口県周南市<正始元年>)、あり、これらの
   地域からも使節の一員として渡った人がいるようだが、氏名は不明。おそらく
   陳さんと親しくなり彼から直接貰った物であろう。卑弥呼からではあるまい。
    また、よく畿内以外の地方で韓半島や中国の文物が発見されるとその地域
   の人が直接韓半島や中国と交流ないし交易をしていたと言う人がいるが、
   北部九州や日本海側の人ならいざ知らず、それは間違いであろう。出雲の
   大国主命でさえ九州(今の宗像市か)に外国交易の拠点を持っていたし、
   邪馬台国(大和)でも伊都国(太宰府の前身か)にその種の機関を置いていた。
   ことほど左様に外国と直接交易などをするのは難しく、畿内以外のこれらの
   出土品は、おそらく兵卒として或いは使節団の一員として韓半島や中国に
   渡った人が何らかの形で持ち帰ったものであろう)
 古代天皇はこれら外国派遣要員としては臣のカバネを持つ地方の豪族を主に当てていたようである。天皇にとっては縁の薄い人たちだったのだろう。それに反して畿内で発見されるその種の出土品は天皇が先方の権力者(例、王や皇帝)から貰った物で、品質も若干違うのでは。但し、そのような話は聞かない。従って、日本が正式に中国の王朝とまみえたのは、奴国王、倭国王帥升(素戔嗚尊か。即ち、不弥国に拠点を置いた出雲)、及び邪馬台国女王卑弥呼(伊都国に拠点を置いた大和)の三カ国だけである。大陸に関心が向けば後方がおろそかになり主導権が九州から山陰へ、そして畿内へと移って行ったのである。
  素戔嗚尊を倭国王帥升とするのは、古事記によれば宗像三神は素戔嗚尊と天照大神の誓約でできた素戔嗚尊の御子たちと言う。さすれば、素戔嗚尊は宗像の地に関係があるであろう。また、素戔嗚尊のスサも今はサ行をsa、shi、su、se、soと発音するが、これをsha、shi、shu、she、shoと発音する地域もある。スサは即ちshu-sha(シュシャ)に近い音になるのではないか。アとオは変音しやすいので中国人にはシュショと聞こえスイショウとなってのではないか。倭国王というので神武天皇に当てたいところだが、該当はしないようだ。当時の倭国とは、今の九州北部から山陰地方程度のものだったようだ。帥升等というのも帥升は同位者の代表という意味らしい。また、帥升が韓半島に向かった航路も魏の使節団一行とは違い、現在の宗像市から大島、沖ノ島、対馬先端を経由して韓半島にたどり着いたのではないか。
 何分、帥升は古代において唯一大陸に渡った倭国王のようである。献上した生口の数もぬきんでて多く(百六十人という)、自身の権勢を誇示しようとしたものか、先方の需要に応じようとしたものか。例、日本は漁業が発達していたのに対し、大陸では漁法が乏しかったので漁師(海部)を必要としたとか。それにしても、帥升は後漢の皇帝にまみえたのだろうか。記載がないので謁見はならなかったと言うのが多数のようである。思うに、帥升は多勢(160人)を頼み、同僚(奴国王や伊都国王も一緒に行ったか)の手前、交渉ごとはすべからく強気で押して先方に嫌われたか。しかも、皇帝は13歳ほどで、会っても意味があったのか。先方の都合で会えなかったのでは。倭国王無礼なるものあり、とはならなかったと思う。また、宗像三女神の市寸嶋姫の読みも問題だ。「イツキシマヒメ」なのか「イチキシマヒメ」なのか。いずれも伊月、五木など、或いは、一木、市木、市来など、ほかにも同様の地名がある。今は「イツキシマヒメ」と読むのが主流のようだが、魏志倭人伝には対馬と壱岐の項(いずれも島)に「市糴」の言葉が出てくる。或いは、別のところでは「国々市有り、有無を交易し」とある。或いは、市杵とは何か経済行為に起因する地名で「イチキ」と読むか。沖ノ島は紀元1世紀ないし2世紀は人の住む島で、聖なる島即ち厳島となったのは3世紀ないし4世紀以降という説もある。市寸嶋姫を西暦107年頃の人とすると未だ「イツキシマ」とはならないのではないか。敷衍すれば、市杵嶋姫は交易を、田心姫は田畑の耕作即ち農業を、湍津姫は滝即ち水資源を、管掌したのではないか。小さな島なので女性でも間に合ったと言うことか。しからば男は何をしていたかと言えば漁師で、海に出ていたのでは。市杵嶋姫は島の特産品を韓半島ではなく筑紫の方に持っていって交易(現代流に言うと行商か)していたのではないか。素戔嗚尊は三人の父でも血縁者でもなく、逆に悪質な男と思うのだが、お前の妄想だ、と言われるのが落ちなので割愛する。また、銅鏡百枚についても三角縁神獣鏡が百枚以上発見されいるので、いろいろ議論がなされているが、何も正確に百枚ではなく、百とは人が数えることができるたくさんの意味であって、人が数えることができないたくさんは千と言ったのではないか。不弥国から邪馬台国への所要日数が多いのも単純に荷物が重かったからかも知れない。国産か中国産かは鏡の成分を分析すればいいことでは。
4. 正始元年(240年) 中国からの使節が倭国にやって来て、詔書・印綬、前回
   ほどではないがたくさんのご下賜品を持ってきた。
5. 正始四年(243年) 倭王が使の大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・
   倭錦・絳青・緜衣・帛布・丹・木弣・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将
   の印綬を壱拝す。
   【伊聲耆とは誰のことか】
   読みは「イホキ」か。五百木、五百城、伊尾木など。滋賀県米原市に岩脇と
   書いてイオギと読む。
   イハキ(磐城、岩木、岩城など) → イホキ(五百木、五百城など) → イフキ
   (伊吹、伊福など)と変化したものか。
   豊岡市出石に現存する伊福部神社は崇神天皇の頃に「津居山浦(豊岡市
   津居山)」に来着した新羅の皇子が創始したと言う。但し、異説有り。
   景行天皇の五百木入彦命も此方の出身か。そもそも景行天皇の忍代別
   (おしろわけ)と言うのも、尾白、小代(兵庫県)、恩志呂(鳥取県)に由来する
   名前か。但し、忍代と尾白、小代は古代では発音が違うか。景行天皇の母
   日葉酢媛命は丹波ではなく小代出身か。
   また、次の段では掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拝す、とある。どうして
   伊聲耆の名が出てこないのであろうか。日本でもそうだが五百木入彦命は
   皇太子といいながら何をしたか分からない人。或いは、間諜の役目を負い
   先方に発覚し、留め置き、或いは、殺害されたか。伊聲耆と掖邪狗は同一
   人物という説ではその後伊聲耆が出てこなくとも問題は生じないが、果たし
   てそうか。
   ところで、伊聲耆は間諜としては失敗したが、本業は何だったのか。五百城
   の本則に戻り「岩城」とするならば、岩城即ち石塁を築造する人のことであろ
   う。「五百旗頭」姓が兵庫県や大阪府に残るのも陣地を造るのに木柵や土塁
   よりも石塁がよかった(類似の話として伊勢国風土記逸文に、出雲神の子
   出雲建子命(伊勢津彦神、天櫛玉命)が伊賀安志(あなし)に石で城(き)を造
   っていた。阿倍志彦神(伊賀国阿拝郡の神か)が来襲(原文には来集とある
   が来襲のことと思う)してきたが、勝てずに帰っていった)ので邪馬台国傘下
   の諸国から石塁築造の専門家(広い意味では今の石工のことを言う)が集め
   られた。今の五百旗頭さんはその人達のご子孫では。もっとも、当時、既に
   民生用品(石包丁、石鍬など)と産業用品(兵器、築城など)の石工は別れてい
   たようで、五百旗頭は産業用製品を作った石工である。
    このことから、邪馬台国と狗奴国の衝突地が推測される。
 それは今の兵庫県で、それも大阪府に近いところではなかったか。具体的には、尼崎市、伊丹市、宝塚市、西宮市、芦屋市、神戸市など旧摂津国(摂津国は元より津の国も奈良時代の命名という説もあるがここでは単にその範囲を言う)のどこかでは。候補としては尼崎市久々知や西宮市山口町公智神社が考えられるが、私は、西宮市山口町の公智神社あたりと思うのですが。同社の祭神久々能智神は狗古智卑狗のことか。木の神という。或いは、狗奴国は城柵を木(石製や土器製ではないという意味)で構築したのか。気がかりなのは、離れたところに公智(くち)と久々知(くくち)と言う「くち」の地名があること。(公智は直接には山口の口か)このあたりは邪馬台国(尼崎市久々知)からも狗奴国(西宮市公智神社)からも前線基地という意味で「口」と呼ばれていたか。
 記紀にその痕跡を求めれば、古事記「孝霊天皇」段、「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは相副いて、針間の氷河の前に忌瓮を居えて、針間を道の口として吉備国を言向け和したまいき」とある。これは戦争の順序、1.交渉2.調略3.肉弾戦の1.の交渉で決着が付いたと思われるが、その後吉備国と大和国はしばしば対立し大和国は吉備国に押されっぱなしで、ついに魏志倭人伝にある狗奴国との戦いに及んだか。女性を王としなければならないほど「まとまりを欠く」大和国ならではの話か。
   【掖邪狗とは誰のことか】
   読みは「ミヤケ」か。屯倉、三宅、宮宅など。中嶋神社は豊岡市三宅にある。
   祭神は田道間守といい、三宅氏の始祖と言う。田道間守は天日槍五世の孫
   と言いながら、それにしては祖先の天日槍と同時代に垂仁天皇の段に出て
   くる。垂仁天皇が創始した荘園的な屯倉とは違い、御家宅(即ち、国の倉庫)
   かと思う。舶載品を出石の御家宅に一時収納したのであろう。出石の御家宅
   が草創期の御家宅、また、その管理者の三宅氏の発祥の地と言ってもおか
   しくない。
   即ち、掖邪狗は倉庫係、物品管理者だったようだ。田道間守は官名とも言う
   べき屯倉を名乗っていたらしく、掖邪狗は田道間守と思う。そもそも、記紀
   は但馬国の古代有力者を一族として、はたまた、一本系図でまとめようとし
   たらしく、田道間守も天日槍五世の孫などと言っているが、一本系図に載せ
   られている人々は血縁関係にある人たちかどうかも分からず、かつ、活躍し
   た時代も同時代か上下一世代の範囲に収まる人たちではないのか。従って、
   田道間守は日本歴史上名高い人物ではあるが、そんな人はいなかったのであ
   って、せいぜい「三宅守(ミヤケ・モリ)」というような名の人がいたと言うだけ
   ではないか。ついでながら、掖邪狗を田道間守と解するなら、記紀で田道間守
   が常世国へ行って橘を持ってきたとなっているが、田道間守は国家の枢要な
   任務をおびて魏へ行ったのであり、記紀の記録者(崇神、垂仁の部分は物部
   十千根か)は田道間守の任務を矮小化するばかりか、当時の政権中枢には
   いなかったのではないか。すなわち、倭姫命、倭彦命と崇神、垂仁は異なる
   権力体制だったのか。
追 記
 「摂津国」ないし「津の国」は、奈良時代までは「難波津」と呼ばれていたという。難波津の津がその後、津の国、摂津になったという。もしそうならタニハ(丹波)もナニハ(難波)も同じ意味になり古代丹波国は後世の丹後、丹波、摂津を合わせた地域となる。古代国家草創期では大和の軍門に下った敗者の将は大和に留め置かれ、娘は大和の皇尊に嫁いだので(例、事代主ないし大物主(いずれにせよ出雲系)の娘が神武天皇に、大彦の娘が崇神天皇に、丹波道主命の娘が垂仁天皇に、嫁いだ)、或いは、神戸市にある西求女塚古墳は丹波道主命の墓かも知れない。皇尊や大王の墓は大和盆地の中に敗者の将の墓はその外に築かれたのかも知れない。土地の豪族の墓とは考えられない。そもそも、摂津
の人間はいわゆる高地集落に住んで吉備(狗奴国)と大和(邪馬台国)の戦いを高みの見物をしていたのであり、大和の皇尊(すめらみこと)や大王(おおきみ)がそんな人に舶載品の鏡を与え、豪壮な墓を建てることを許可したとは考えられない。
 また、ここにこんな墓があると言うことは邪馬台国と狗奴国の戦いは山陰勢の加勢で邪馬台国が勝利したと言うことか。余談になるが、そのほかに西求女塚古墳の被葬者として候補になるのは、記紀では野見宿禰(播磨国風土記によると、播磨国の立野で死亡し、その地で埋葬されたと。要するに、山陰の人が瀬戸内海沿岸に埋葬されたと言うこと)、魏志倭人伝では伊聲耆、載斯烏越が挙がろうかかと思う。考えうるに、伊聲耆が万が一にも無事帰国し邪馬台国・狗奴国戦で全国の五百籏頭を指揮して陣地を構築し、それなりの成果を上げて戦地で亡くなり後日墓を建てたなら、西求女塚古墳は伊聲耆の墓とも考えられる。卑弥呼から鏡をもらえる立場にあったし、元々石の専門家だったので石棺の石も全国から集めることができる。但馬が生活の本拠だったから山陰の土器も入手可能だっただろう。野見宿禰がどの程度の仕事をしたのか、また、卑弥呼(倭姫命)との関係も分からないのに対し、こちらは全国の五百籏頭を集めた痕跡もある。そもそも、景行天皇の忍代別(おしろわけ)と言うのも山陰地方(兵庫県美方郡香美町小代区、同村岡区村岡尾白山(村岡陣屋跡)、鳥取県岩美郡恩志呂神社)くさい名前だし、五百城入彦皇子というのも伊聲耆がモデルのようにも考えられる。五百城入彦皇子が訳も分からずに景行天皇の皇太子というのもここいらに原因があるのではないだろうか。予備の皇太子というのもおかしい。郷土の英雄もペアで語り継がれているうちに、その関係が不明確になり、本来景行天皇の父か祖父の代の人が息子になってしまったのでは。当時は今の兵庫県豊岡市から鳥取県鳥取市に掛けては一つの文化圏ないし経済圏だったのかも知れない。なお、記紀に記載されている大彦や丹波道主命等が崇神天皇の臣下になったのは大和に留め置かれた後日談と思われる。
 ここで結論づけられるのは、西求女塚古墳が通説の言うように卑弥呼と同時代の頃に建造され、卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡や山陰地方特有の土器、石室の天井石は徳島県、和歌山県、川西市産出のものとされるならば、当時の山陰地方は大和の外国に開かれた窓口であり、邪馬台国は大和なかんずく卑弥呼のいたであろう葛城の地と思料するものである。ほかに当時は敗者の将が集められた三輪の地(現今、纏向遺跡が著名)があった。魏志倭人伝に「郡の倭国に使するや、・・文書・賜遺の物を伝送し・・差錯するを得ず」今で言う送り状と品物を持たせ両者が齟齬をきたさないようにしたのだろう。当時、一部の人は文字を使用していたようなので紙類は無理としても木簡か竹簡が発見されれば、と思うのですが。
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