邪馬台国への道のり(2)

<狗奴国>
兵庫県西宮市山口町。公智神社。
 
 其の南に狗奴国有り、と言っているが、何も南にあるわけではない。
魏の使節が戦闘中の狗奴国国境まで出向いたとは思われないし、狗奴国へ
行って仲裁を行ったとも考えられない。いくら古代とは言え卑弥呼の友人
の仲裁を狗奴国が受け入れることは論外である。即ち、南と書いたのは
倭の官人に聞いたものか、魏の使節の当て推量であろう。そもそも、中国
では、倭は会稽の東冶の東にあると思っており、かなり南と設定している。
方位が分からなくなったら、何でも南、南と書いておけばよかったのでは。
やや意地悪な表現をすればそのような文章規範でもあったのか。
 国名の狗奴国についてもクナと訓じて「熊」の字を連想するのか、熊襲
とか熊野とか球磨、はたまた、毛野の地名を比定しているが、果たして
「クナ」イコール「熊」と連想してよいものかどうか。私はクナはクニの
音を写したものであり××国の××が欠落したものであるから、何もクマに
関連したクニ(国)を探す必要はないのではないかと思う。
 官に狗古智卑狗有り、と言い、多くの説は菊池彦に比定している。しかし、
同じキクチヒコでも木口彦も考えられる。しかし、この説の泣き所は木口は
今は「キグチ」と読まれ、岡山県に多い姓となっていることである。キクチ
と読み、兵庫県に分布する姓、となれば問題解決は飛躍的になるのに。
 とにもかくにも、邪馬台国は狗奴国に軍事的には押されっぱなしだった。
吉備から播磨、播磨から摂津へと領土は侵食の一途だったのだろう。
 卑弥呼に協力してくれるはずだった伊支馬以下の吉備出身の大王も及び
腰になっていた。ちなみに、吉備国は、後世、九人の国造がおり、一口に
吉備と言っても一枚岩ではなく親邪馬台国と反邪馬台国に分かれていたの
であろう。親邪馬台国の大王は吉備に背を向けた東(あづま)や越(こし)、
丹波(たんば)に関心があったようだ。親邪馬台(大和)国と言っても大和の
皇尊(すめらみこと)から見れば大和の軍門に下った敗者の将以外の何者で
もなく(実際、外交交渉で親大和になったのか、はたまた、戦で負けて親
大和になったのかは不明)、出雲の事代主命同様大和に留めおかれ三輪の
地に押し込められていた。このことは崇神の四道将軍の派遣にも言い得る
ことで、派遣の話は、大彦(吾妻)、武渟川別命(越)、丹波道主命(丹波)、
吉備津彦命(吉備)はそれぞれの地域の豪族で伊支馬以下の大王に敗れ大和
に留置されて大和王朝の系譜に加えられてからの話であろう。但し、古事
記には西道(吉備)派遣の話を欠くが伊支馬以下の立場を暗示するものでは
ないか。もっとも、大彦以下は伊支馬等に敗れたので、それらの人(特に、
崇神)の臣下と位置づけられたのかも知れない。
 倭(ヤマト)の先人(神武天皇か)は、「鉄と塩」を求めて出雲と吉備への
両面作戦を展開したが、軍隊のない交易国家だった出雲は簡単に陥落した
ものの軍事国家だった吉備は強固に抵抗し逆に大和進出への橋頭堡を築く
有様だった。とは言え、神武が出雲や吉備を攻撃したという記録は記紀に
はない。出雲の国譲りの話に出てくる武甕槌神と経津主神の二神は、伴に
突然出現するマイナーな神で、たとい出雲の国譲りが外交交渉で行われた
としても別の大和の 皇尊が行ったのではないだろうか。それに、武甕雷神、
経津主神の名は「剣」を擬人化したもので実体はほかにいると言う見解も
ある。あるいは神武天皇と大久米命か。とにもかくにも、記紀における大和
磐余の地にいた皇尊の草創期の記録が不正確なのは残念。神武天皇の
記録もほかの欠史八代の天皇と同程度だったものを後世の人物(具体的
には、大伴室屋か)が初代天皇と言うことで大伴氏の自家の宣伝とも相ま
って尾ひれを付けたのではないか。ことほど左様に大和の古記録はお粗末
でほとんどを口承に頼っていたのであろう。崇神天皇の代になって急に内容
が多くなるのは、卑弥呼(倭姫命か)が中国の魏と国交を開き漢字が大和に
導入されたためと思われる。邪馬台国の官人は中国人より短期に漢字を
習得したようである。もっとも、漢字は日本には既にまず九州北部(西暦元年
頃か)に、次いで出雲(西暦100年頃か)に入ってきており、日本の歴史(記紀
の記録)が九州(建国神話)、出雲(出雲神話)、大和(天皇の歴史)の順に書か
れているのも、漢字(文字)の導入順と関係があるものか。もっとも、漢字は
日本人間で伝わったものではなく各地域に中国(韓半島)から直接入ってきた
ものだろう。
 私見では、日本の建国神話の内容は外国文献の参照と大伴一族が景行天
皇の九州遠征に参加した際の記録ではなかったかと思う。本来なら建国神
話は博多湾界隈《住吉神社の社伝に言う、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐
原は住吉神社の地であると言うのも首肯できるか。それに、阿波岐の岐の
字は、伊伎(壱岐)や隠岐、伯岐(伯耆)、生月(いきつき、と読むが、いつき、
斎、伊都伎か。例、生駒。、など九州北部や山陰に関係する地名文字とい
う見解もある。敷衍すれば、安芸、讃岐など》で始まるべきなのを現在の
宮崎県や鹿児島県(当時は両県は熊襲国と言い、隼人、熊襲の言わば異民族
の支配するところだった)に偏っている。これは景行天皇一行が日向に長逗
留したためであろう。神武天皇当時は先祖が同じならば同族と解せられ争
わなかったのでは。例、神武天皇が長髓彦に天つ神の子の証拠として、天
の羽羽矢と歩靭を見せた。おそらく、景行天皇の遠征時も長逗留の間に大
伴氏の先祖が日向の人の先祖や神話などを詳しく聞き出し、大和の人も同
じ先祖を祀っていると称して日向の人(隼人、熊襲とは別の倭人か。そもそ
も、日向の神武天皇が通訳なしに大和の人と意思の疎通を図れたとは思わ
れない)を味方に引き入れ隼人や熊襲に対峙したのでは。博多湾に建国神話
の痕跡が残っているとしたら、宗像三女神の話か。当然のことながら、卑
弥呼はいわゆる磐余ないし葛城の地にいたのであり、伊支馬等はいわゆる
三輪の地にいたのである。
 魏志倭人伝はここで「郡より女王国にいたる万二千余里」と記している。
ここが倭のつきる国という意味か。
 
生月島について
 古代より読みは一貫して、生属(生月)、一岐津崎、息尽、いきつき、など
イキツキではあるが、「能因歌枕」(平安期の著作)には肥前の歌名所として
「いつきのしま」とあり、これを生月島とする見解もある。また、岐の字は、
後世、城の字に置き換わり、対馬の金田城、肥前の基肄城、筑前の大野城な
どがある、と言う。
 
阿波岐原について
 上述したように岐の文字は九州北部や山陰地方に多いことや、大門(岬)と
いう地名(いつ頃からあったかは不明。但し、筑前国続風土記怡土郡や志摩
郡に記載あり)が今に残っており(小門という言葉があってもいいはず)、伊
弉諾命は出雲から来たようなので阿波岐原は九州北部にあったと考えるのが
常識的ではないか。
 そこで、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原はどこにとなるのだが、
一説に、筑紫は福岡県、日向は糸島市の日向峠、橘は同県糟屋郡新宮町の立
花山、小門は古賀市の尾東山(おひがしやま)、阿波岐原は古賀市青柳と言う。
 
 私見では、
A案(地域をコンパクトにまとめたもの)
 筑紫は福岡県、日向は糸島市の日向峠、立花は福岡県糸島市立花峠(唐津領
橘嶺と筑前国続風土記にある)、小門は福岡県西区小戸、阿波岐原は住吉神社。
 難点は、糸島市から唐津市方面に向かってまた福岡市に引き返す合理性が
ない。或いは、橘から海路で小門、阿波岐原へ向かったか。
 遺称地名から推測すると何か伊邪那岐、伊邪那美神話は魏志倭人伝に言う
伊都国界隈の潜水漁法を主とした海人族の神話かとも思う。また、伊邪那美
は比婆山に葬られたとあり、伊邪那岐は近江ないし淡路の多賀に隠棲したと
ある。伊都国は早くから畿内や出雲と交流があったと言うことか。
 イサナギ、イサナミのイサナも鯨の古称とかイソナの転と言う見解もあり、
漁師(海女、海士)夫婦を連想させる。もっと想像をたくましくすれば、縄文
弥生の時代より人間はあちこちに移動して物資の交換を行っていたのであり、
その中に旅行好きの夫婦がいてもおかしくはない。伊邪那岐、伊邪那美夫婦
もあちこちを見て回りその旅行譚を帰国しては周りの人に話し、その話が民
話から、後世、神話になったのではないか。二人の旅行範囲も西日本や九州
に限られていたようである。国生み神話で佐渡島が出てくるが、当時として
は驚きだ。途中、伊邪那美が比婆山に埋葬されたというのは、比婆山登山中
に事故で亡くなったと言う事実を反映したものか。或いは、火傷が元で亡く
なったと言うので、製鉄作業を見学中に火花があたり火傷になったか。
 
B案(出雲からのスタンダードな道順)
 筑紫は福岡県、日向は固有名詞ではなく「朝日の当たる場所」と解して今
の宗像市鐘ノ崎あたりか。日向の地名は日向と日陰がはっきりした山岳地帯
に多いという。この場合、或いは、宗像市を流れる釣川は今より急峻であっ
たと言う説もあるので宗像市の釣川沿いか。もしくは、もう少し範囲を広げ
て山口県下関市の住吉神社か。橘は立花山の海岸地域の地名か。立花は立鼻
(端)もしくは断ち端(鼻)の意味か。鼻(端)は海に突き出た言わば岬のようなと
ころ。小門は志賀島と能古島の間か。阿波岐原は住吉神社。全行程を海路で
渡ったのだろう。
 難点は、遺称地がほとんどないこと。
 阿波岐原は「阿波」「岐」「原」の意味か。阿波は川の意味だろう。従っ
て、阿波国の阿波は吉野川の意味であって、穀物の粟ではない。「か」と
「あ」が交換する例、「山のかなた」と「山のあなた」など。もっとも、
先代旧事本紀(国造本紀)では、粟国には粟国造と長国造の二人の国造がいた
と言う。粟(吉野川)、長(那賀川)で双方とも川に語源を有する地名か。もう
少し敷衍すると「なか(中)」を川と解するのは両岸の間(即ち中)にあるのが
川であり、それ故、川を中と言った。全国にも那賀川、那珂川、中川があり、
単に平野の真ん中を流れているからでは説明が付かないのでは。
 この場合(阿波岐原の阿波)は那珂川を指すと思われる。岐は丸太などを密
に並べ外敵や風、水、波などの自然災害から人々を守ろうとしたものだろう。
那珂川の水害に備えたものか。原はこの場合平野を意味したのではないか。
依って、阿波岐原が福岡の住吉神社であっても何もおかしいものはない。但
し、筑前国続風土記では志摩郡青木村(現福岡市西区今宿青木ほか)を檍原と
云わんも理無きにしも非ず、と。
 
 
 
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